『夢の男』2023年劇場版:KAAT 神奈川芸術劇場

 KAAT 神奈川芸術劇場にて『夢の男』を観賞する。『夢の男』は《視覚言語がつくる演劇のことば》プロジェクトの作品として制作されている。藤原佳奈が執筆したテキストをもとにして、過去2年間(2021年/2022年)に同タイトルによるオンラインでの発表が行われてきたが、今回は劇場空間での上演という形になった。本来の形に戻ったと表するのが正しいのかどうかわからないけれど、前回と前々回の映像作品はそれぞれが演劇的表現を取り入れたうえでの自律した作品になっており、昨今の社会情勢の成り行きで結果的に順序が入れ替わっただけのことかもしれない。だが、目の前に現れる生身の役者の存在感、劇場に向かう行為にともなう高揚感は、PCの画面を前にして観賞する行為からは得られることのない、日常生活を逸脱するような(特別な)経験であったのは言うまでもない。会場の大スタジオに入ると、通常の舞台と座席が設置されていない様相を目の当たりにする。平坦に開かれた空間の真ん中に膝の高さくらいの簡易ステージの大きいのが1台(組?)、その前後に小さめの2台(大きいステージより腰程度に高くなっている)がそれぞれに置かれたセット構成になっている。観客はステージの周りに手当たり次第にばら撒かれた座布団の1つを選択して座る。このようにして大きいステージを中心に360度近く囲んで観賞するのが本作の観劇の形であった。

 上演の際に客電が落とされて始まったのか、落とされないまま始まったのかは、今となっては早くも記憶が朧げになってしまったが、唐突な感じでカメラを持った齋藤が登場し、ステージや観客の間を徘徊する。齋藤が片隅のベンチに座った後に2人の人物、山本と江副が対角に設置された2台の小さなステージに立ち現れ、山本は音声、江副は手話といった、自分の使う言語で同時に朗読を行い始める。演劇等の舞台観賞の経験が乏しい僕のことだからかもしれないが、江副の左手で冊子を持ち、右手で手話をする姿には何故か新鮮な感じを受けたのである。ろう者は日常生活の中で手話を片手ですることはよくあることで、僕も状況によっては片手で会話することがある。だが、演劇空間における江副の片手による手話は別の意味を呼び起こす。冊子に書かれているのは『夢の男』のテキストであり(冊子は観客にも入場時に配布される)、日本語で書かれたテキストを片手に持ちながら片手の手話で同時翻訳することのスリリングさを目撃している時の感覚をどう言い表せばいいのか。文字言語をもたない手話であるがゆえに、片手に持ったテキストの存在が江副の身体と摩擦している。山本が音声で朗読する時の書かれた文字の日本語をそのままなぞる円滑さ(全てがスムーズに行われているという意味ではなく、相対対象としての形容)に対して、日本語を手話に翻訳する時の困難さ(異言語間の横断性)を演劇空間の中でモデル化(前景化)することの現前性があり、そこにある種の新鮮さを感じたのである。テキストの日本語の文字と手話による語られた言葉の対立関係は、手話による現前性が実は書かれた文字に準拠してしまう関係を同時に孕んでいる。この対立そのものが倒錯を含んでいるのであり、語られた言葉(手話)のうちにも書かれた文字と日本語の影響を受けざるをえないマイナー言語としての宿命が潜んでいる。同じ日本語としての文字から音声への円滑な移行が行われている位置の対角線上で、江副の身体は日本語の文字を視覚的に、あるいは空間的に翻訳することで、文字に依拠しながらそれを否定するという倒錯を両手の同時行為、手話と冊子の現前性によってポジティブ(江副の優れた才能を含めて)に行なっているのだ。

 朗読が終わった後、山本は生身の存在のまま、江副は影の存在として二手にスタジオの内外へと分かれ、スタジオを囲む壁の一面の表裏で生身の存在と影のシルエットが解離的に競演される。観客の前に再び現れた江副は、影としての存在から身体そのものはあるのに「身体をなくした」という、実体的存在を装った非実体的人物に成り代わる。江副は山本に延々とついて回るのだが、大スタジオの空間を縦横自在に動き回る様子(実際には緻密にコントロールされている)は360度に開かれた演劇空間に対する観る側の視線の定らなさも相乗して、2人の追う追われるの関係、あるいは朗読の時には顕現していた2人の身分関係が次第にあやふやになっていくようである。2人のそれぞれが持つ言葉(音声/手話)を排除した身体動作のみによる抽象性が拡張され、自分の身体に対する不確かさがフイクションとしての役者の身体のみならず、それを観ている現実的存在としての観客の身体にも波及している。追う追われるの関係を演じる2人の身体は、音声と手話が有する言語的特性を抑制する(差異の消失)ことによって、共有コードとしての視覚言語を演劇空間の中で全面展開している。身体動作から生成する、言語的特性が希薄化された視覚言語は伝達する機能を縮小し、文脈的な意味の発生以上にその場で行われている事象自体の抽象性を増幅している。しかし、そのような視覚言語が支配するなかで、山本がときに表わすオーバーアクション的なジェスチャーと江副が唐突に挙げる物体化した吹き出しの台詞は抽象的事象に裂け目を生じさせる、別の形としての視覚言語を新たに発生している。ディスコミュニケーションの表象、不確かさが浸透していく悲劇性に対する喜劇性としてのコメディ的ふるまいは役者の身分性を再び浮き上がらせる。山本のジェスチャーはまぎれもなく聴者としての純粋なふるまいそのものであり、吹き出しの小道具を持つ江副の姿には、ろう者あるいは手話が日本語を借用することのアナロジーになっている。アクション(山本)と文字(江副)に準拠することの倒錯が視覚言語への実践をカオス的に導いているのであり、多層的に視ることの悦楽とユーモアがそこには発生している。街のシルエットの後に1人残された山本の舞踏的動作に当てられるフラッシュ照明は身体が失われていく感覚を明滅的に照らしているが、消滅的イメージよりは破壊的イメージが喚起され、むしろ肉体としての存在(感覚)が瞬時的に迫ってくるのである。

 明転で山本と交代するようにそれまでずっとベンチに座っていた齋藤が白い大画面のスクリーンの前に置かれた演台に立つ。演台で齋藤が語るのは、つい今しかたまで山本と江副が行ってきた『夢の男』の芝居、あるいはテキストの内容についてであり、齋藤自身の生い立ちを織り交ぜながら話している。幕開き(幕は無かったけど)の時に齋藤がカメラを持って登場したことに引っ掛かりを感じていたのだが、演台で語り始めたことでその引っ掛かりが次第に溶解することになる。齋藤は著名写真家でもある「齋藤晴道」自身として本作に参加していることが明らかになったのである(スクリーンに大写しされた、余韻が長いクロスフェードの写真もおそらく齋藤の作品だろう)。作品内においての「本人役」とはまた意味が異なる、れっきとした「齋藤陽道」その人自身が演劇空間に出現している。演劇空間に入った時から齋藤はメタ的な存在として、半ば観客と同列の存在としてベンチに座っていた。演台で語る齋藤は「齋藤陽道」自身のろう者としての固有性(自我と言い換えてもいい)を前景化させ、演劇空間におけるメタフィクションな曖昧さでさえも通り越している。観客の中にろう者がいたとすれば、齋藤の語りは代替可能となる(僕でもかまわないし、齋藤が聴者であれば聴者の観客でも可能となる)。つまり現実的存在としての固有性が観客の数だけ、KAATの大スタジオに集まっているということが言える。齋藤は『夢の男』で描写される身体の不確かさを自分の身体や自分固有の過去に照らし合わせながら解釈しているように感じたのだが、揺るぎない固有性から発する他者の感受性や認識を少なくとも作品内で受容することは困難であると言わざるをえない。表現の外部にある何かにコミットするのではなく、フィクションとしての世界をまるごと受け取ることが作品そのものを自由に経験する実践となるのではないか。そのことは意味自体が拒否されることもある場としての演劇空間を体感することでもある。

 再び山本と江副の2人による台詞のない芝居が始まり、今度は互いが離ればなれに身体表現を行っている。2人の身体動作を交互に凝視していると、普段の生活で繰り返される日常的動作を模倣していることが見てとれる。山本はベビーカーを押したり、子供を抱き上げたりするような、若い父の行動にありがちな動作をしている。江副のほうでは1人の男性が毎日行動する、起床してからの朝の準備、電車での通勤、会社での仕事作業などの情景が現れている。こういった日常的行為が2人(のどちらかでも)の実体験に基づいたものであることを、ある程度想像することはできるかもしれない。山本と江副の各自の個人的経験からこのような演劇的表象に移行されていることを前提として言うなれば、2人のフィクション的存在がゆるやかな固有性(普遍的、無名的にも成りえるような存在)として、それぞれの身体表現に同化している。日常的動作を模倣しているが、ベビーカー、ネクタイやシェーバーなどといった実物や小道具を使わない身体表現は反復的なイメージによって、身近な出来事に対する具体的な想像から肉体そのものの運動への直面に変移する時間と空間を生起させている。離ればなれに行動していた山本と江副が接近と離反を繰り返し、2人の視線が交わされる場面が訪れる。仕事の合間の休憩でタバコを吸っているように思われる江副の動作の一方で、赤ちゃんとのお出かけの途中で一息し、山本もタバコを吸おうとしてポケットの中を探る動作をしている。タバコもしくはライターを探るのに多少手間取っている感じで、その目的物に触れた瞬間、離れたところにいる江副と眼が合う。その際に、後ろのスクリーンに「あ、ありましたね!」の字幕が表示される。テキストにもその言葉はあり、無くした身体の在りかに拘泥する夢の男に適当に言い放つ言葉となっているのだが、喫煙の場面の際に表示される字幕は、日常生活や社会生活で孤独になった者が持ちうるかもしれない身体感覚の変容に対する反動的あるいは能動的な言葉として、テキストの言葉と複層的に連動している。2人の視線が合った瞬間の時空を超えたシンパシーは、同時に演劇空間での行為と結びついた身体そのものに認識を向かわせる。「あ、ありましたね!」の字幕は、山本がタバコもしくはライターがポケットにあることを認識し、江副と視線を交わした時に表示されているので、その字幕は山本が探していた物自体への因果関係を表してもいる。不確実な身体感覚から生ずる観念的なものとしての「身体」と役者の肉体そのものとしての「身体」の解離的関係にはある種の緊張感が持続的に発生する。だが、字幕と物自体の具象的事物関係を異時空間を超えて山本と江副が共有認識することの非論理性には理性と感覚の飛躍が発生している。『夢の男』は場面のなかにおいても、場面と場面の境界においても、フィクションと現実の往来が実践されている。融合と分離の2つの印象が最後まで相克するなかで、様々な視覚言語を表象する役者は身分性の超越を試みる態としての身体/肉体を終始現前している。

https://www.kaat.jp/d/shikakuyume2023