『リコリス・ピザ』 ポール・トーマス・アンダーソン

 1970年代アメリカのとある一都市で繰り広げられる恋模様を描いた『リコリス・ピザ』には、エンターテインメントの枠に収まりきらない映画の醍醐味をまざまざと見せつけられる。ポール・トーマス・アンダーソンの非凡なセンス光る世界観(このように言ってしまうおこがましさには百も承知しているつもり)と卓越した演出は言わずもがな、本作で映画デビューを飾った主人公のアラナ・ハイムとクーパー・ホフマンの限界を知らないかのような溌剌とした演技(むしろ初々しさの類いからかけ離れていた)、その主人公2人の脇を固めるベテラン俳優たちの圧倒的存在感が交錯した登場人物の競演に始終心が躍りっぱなしだった。意外性と想定内のどちらでもあるようなショーン・ペンの登場には興奮したが、その後にトム・ウェイツが登場した時は、興奮よりも感動が勝ってしまったものだ。トム・ウェイツの唯一無二のふるまいや仕草にはジム・ジャームッシュの初期映画を観た時の陶酔感が蘇ってくる。『リコリス・ピザ』は一言で言い表すとしたら「疾走」の言葉に尽きるといっても過言ではないだろう。主人公2人の文字通り全力疾走する姿のみならず、映画内に流れる時間も疾走感を放っている。表層的イメージも構造的イメージも疾走によってみなぎっている。女性が年上の10歳の年齢差の設定のもと、主人公2人の世代間のズレと意地の張り合いが付かず離れずの男女関係(誰もが経験するであろう恋愛に付きまとう煩わしさ)を巧みに大胆に展開させている。冒頭の2人が初めて出会う運命的なシーンはとめどなく交わされる歩行しながらの会話が最後まで移動撮影によって捉えられている。その運動性の豊穣な表象によって始まるこの映画はその後もシーンごとに何らかの運動を生起するショットを挿入し、運動的イメージの強烈さをその度に印象付けている。ゲイリーが誤認逮捕された際に、ゲイリーを連行したパトカーをアラナが追うシーンと警察署から解放されたゲイリーがアラナと一緒に元のところへ戻るシーンの両シーンにはアラナの怒りと喜びの相反する2つの感情が駆け足によって往復的に運ばれている。他人のために駆け足をすることは非日常的状況を生むことであるにもかかわらず、ゲイリーとアラナは恋愛関係を結ぶことに到達できず、不確実な状況をストーリー上で保持したままにしている。夜のゴルフ場でのアクロバットな状況後に今度はゲイリーがアラナのところに全力で駆けつけても、やはり保持のベクトルは解除されない。だが、ラストに現れる過去(少し前の)の映像と交互にフラッシュバックする駆け足のシーンは主人公のどちらかが止まっている状況にそうでない方が駆け寄るこれまでのパターンが弁証法的に昇華し、言葉にはならない恋愛の感情自体が引き起こす力学によって2人が同じ地点に巡り合わせるように同時に駆け付ける奇跡の運動現象が起こる。その後に2人はついに正真正銘の愛を掴むことになるかのように描かれてこの映画は終わるのだが、駆け足のショットには愛に結びつく以前の「訳のわからなさ」から生起するエモーションに取り憑かれたアラナとゲイリーの衝動的な純粋性が現れているのである。2人が走っているあいだには「疾走」の美しさそのもの以外は何も映っていない。