「FOUJITA」

藤田嗣治の恰好をそっくりに扮したオダギリジョーイーゼルの前に屈んでモチーフを見つめる。そのフォルムに惹かれて小栗康平の映画を初めて見たのだが、スクリーンに映る世界観は最後まで僕に映画的快楽をもたらすことはなく2時間がとても長く感じられてしまった。静謐な世界観が映画という媒体にどれだけ合うのかはわからないけれど、現代の映画は音声と音楽を抜きにしては語れない次元にあり、運動に大きな距離を置くこの映画を僕のようなろう者が見ることは困難なことなのかもしれない(僕はタルコフスキーの映画が苦手だ)。パリ時代のシークエンスは幸い日本語字幕がついていたものの、小芝居的なやりとりばかりで全然頭のなかに入ってこなかったが、「貴婦人と一角獣」の6枚のタペストリーに藤田嗣治が囲まれる半ば幻想的なシーンだけはすごく印象に残った。木枠で固定して飾る絵画ではなく、織物という柔らかな状態のままで飾る支持体の特性にうながされて、これまでに続いた固定ショットの画面に揺らぎが生じはじめる 。中性的な感性の持ち主だった藤田嗣治の身体的表象を美しくとらえたシーンであり、 揺らぐ画面のなかに立つオダギリジョーのひょろりとした身体は見事にマッチしていた。オダギリジョーの美貌とスター性を持った身体は主人公という特権をもって堂々と画面を支配してもいいはずなのに、本人も監督も事前に示し合わせたかのように薄暗い画面に消え入るような存在感の無さを始終スクリーンにかろうじて刻印していた。きらびやかなパリ時代ではお調子者を演じ、日本への帰国後は戦争画の礼賛と非難の両方を受けてきた藤田嗣治の常にスポットライトを浴びてきた人生の裏腹には時代の波を無抵抗に受け入れたひそやかな人生があり、オダギリジョーの肩肘を張らない演技と動きの少ないロングショットによって淡々と描かれている。控えめな主人公のかわりに、圧倒的な映像美や隙のない画面構成が前面に打ち出されている。極力運動を排除し、人間の存在より絵画としてのイメージが画面を支配しているが、「貴婦人と一角獣」や「アッツ島玉砕」などの藤田自身のいくつかの作品が事実的表象としてスクリーンに現れてしまえば、外部からきた圧倒的な映像美を何枚も見せられても、結局は付随的なイメージにとどまってしまうよりほかない(小栗の描く完璧なイメージとは違って、歪められたイメージであったり画面のどこかに控えめに置かれているという感じ)。映画のフレームと絵画のフレームは平面性と矩形の共通点によってイメージの移行は容易くなるが、映画のフレームのなかで固定ショットから静止画像へと運動から遠く離れていけばいくほど、否応無く時間の概念を突きつけられてしまう。画家の生活と描かれた作品は別々の表象に分かれる運命にあり、二つの文化を生きた藤田嗣治の人生には無数の時間と運動が蓄積されている。
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