「アクトレス 〜女たちの舞台〜」

現代特有のせわしさやドライな感覚が初老の大女優の身辺をどこまでも取り囲んでいる。アルプス山脈に向かう列車のなかで、マネージャーの若い女性はひっきりなしに携帯電話を耳にあてたり、画面をいじったり、あるいは廊下を行き来したり、と常にせわしくしている。そのあいだ列車はたえず揺れているのだが、まるで女性ひとりが列車をずっと揺らしているかのようだ。登場人物を小刻みにカット割りしたひとつのシークエンスは自然な時間の流れのようでいて、実は無数の時間が断片的に侵入し、列車の揺れに身をゆだねる画面とともにその空間と短い間隔を複数の時間が折り畳むように重なっていく。現実の時間と非現実の時間が境目なく絡み合っている。このようなアサイヤスの撮る画面には自然さ(撮影現場、俳優の即興)と人為(脚本や編集)が同じ力学をもって交互にくるような複雑な感覚があって、僕は好きだ。リアルなふるまいのようにみえても、けっしてそうではない映画の鼓動(呼吸)みたいなものがスクリーンのこちら側に座っている僕の知覚に伝播する感じといったらいいだろうか。どんな場面でも登場人物はたえず動き回っているような印象がつきまとっていて、大小のアクションが切れ目なく続いている。アサイヤスは映画のなかで人間を精神や感情をもったその場にいるいきものとして、現代的な感覚を携えながらリアリティに扱っているのだけれど、そのリアリティはフィクションを越えたりすることはない。だから、女優とマネージャーの会話が現実の言葉と台詞の言葉をない交ぜにして二人の感情が激しくぶつかり合う様にはとても感動してしまうのだ。現実と虚構の区別がなくなり、老いと若さの生身だけが女性(あるいは女優)の感情を通してむきだしに出される(湖のほとりで素っ裸になる二人の肉体の対比的な美しさ)。時の経過によって肉体は衰えていき、女優も年相応の役を演じていかざるをえなくなっていくが、ここでは老いと若さが対立するのではなく融合することによって、ラストに映し出される顔には二元性を超えた新しい価値観を獲得するときの決意の表情が表れてくるのだ。一方この映画のキーワードとなる「マローヤのヘビ」の舞台であるシルク・マリアの美しい風景がたびたび現れて、登場人物の世代を超えた横溢さを一層引き立てている。登場人物のひとりが突然ある場面から姿を消していくのだが、その去り際があっけなさを通り越してとても潔い感じであり、二人の偽りのない激しくて深い関係を物語っていている。消えた直後の大自然の景色はハプニングの余韻を残されることなく、ありのままの美しさがスクリーンにどこまでも広がっている。だが、残された登場人物の影には姿を消した人物が常に大きく存在している。不在と存在は連続した同質の出来事であり、どちらも理知ではくくれない何かをもって世界を構成している。
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