『 LOVE LIFE 』深田晃司 【多少のネタバレあり注意】

 『LOVE LIFE』の世界には場面設定や現代描写(社会状況、時代背景等)、そして俳優の演技や台詞のそこかしこに「本当らしさ」のディテールが生真面目なまでにばら撒かれている。だが、その「本当らしさ」は現象としてのリアリズムに届きそうで届かないようなある種のもどかしさを蔓延してもいる。リアリズムのベクトルに向かおうとする「本当らしさ」は映画において「もっともらしさ」の滑稽さと大胆さに反転される。これまでの数多ある映画がそうしてきたように、深田も「本当らしさ」を丹念に描写しようとするが、所詮フイクションの世界でしかないのだとでも言わんばかりに「本当らしさ」の中に「唐突さ」を次々に導入する。映画やドラマでストーリーを推進するには「滑らかさ」と「唐突さ」のどちらかのパターンを要するのが映画(主にフイクション)の約束事であるともいえると思うのだが、深田の「唐突さ」は「本当らしさ」に貼り付く「凡庸さ」を破壊するどころが、その「凡庸さ」や「不変さ」が逆説的に引き延ばされていくような、不穏あるいは不安定な状況が一枚の厚いフイルターとして最後まで画面に映っている。通俗的なイメージの背後にある得体のしれない何か、正体不明な何かというのは、現実の日常生活の中にも常に潜んでいるのだけれど、「唐突さ」が訪れない限り、人はできるだけ無関係に過ごそうとする。その何かというのはひとまず「孤独」と形容することができるだろう。だが、フイクションの空間では、「唐突さ」が訪れる以前に登場人物間による会話の中に歪さと奇妙さがところどころに挟まれている。フイクションの空間の中で「本当らしさ」を演じる聴者同士の戯れあう表象に慣らされているはずの(本作の)観者は、妙子の前の夫・パクの「ろう者」という異分子が「唐突」に出現することによって歪さと奇妙さを内包する裂け目がより一層明瞭になっていく有り様を目撃することになる。パクが登場する前の妙子と息子・敬太が妙子の現在の夫(父)・二郎にわからないように手話のみで会話する無音的なシーンも「唐突さ」のひとつであるが、登場人物間の関係性や伏線の意味を超えて、ただならぬ前兆を予感させるシーンになっている。剥き出しになった孤独そのものを妙子と二郎の前面に差し出すパクは「ろう者」という身分性だけではなく、「在日韓国人」「住所不定者」といった異分子の要素が三重化した、いわゆる(日本社会における)マイノリティの全てを体現する特異な人物として描かれている。本作においては3つの身分性のなかでもとりわけ「ろう者」としての身分性が映画的な役割として重視されていることは、第一に手話による台詞を多用していることを見れば明らかであろう。そして、何よりもろう者のパク役にろう者の俳優を起用したことが本作における「ろう者」の重要性を決定的なものにしている。「本当らしさ」のディテールのひとつとして、「ろう者」の当事者性が活用されている。パクを演じる砂田は日本人のろう者であるのだが、本作においては日本手話ではなく韓国手話を使っている。ろう者の役をろう者の俳優が演じる当事者性はフイクションの空間の中で、役割を多少はぐらかされることによって虚構的人物たりえていることの存在性(演技性)が重ねられている。深田は当事者性を尊重しつつも、あくまでも「演じる」ことの虚構性を最上位に置いている。「本当らしさ」の中に潜む「演じることの不自然さ」をあえて意識化させることによってある種の映画ならではの緊張感を画面に漲らせているのである。日本人のろう者が韓国手話を使うという、他言語で演じることの表象性にリアリズムの問題をあてがうことはできるかもしれないが(これも凡庸さのひとつであるが、凡庸さと創造性の関係はどう距離をとるかの思考に接続する)、フイクションの空間において言語的ディテール以上にろう者の身体性、ろう者の佇まいそのものが複数のリアリティを生み出し、作品世界の端々に波及している。パクが仮住まいする部屋で妙子が外出している間に発生する、二郎とパクの2人きりの極限状態。二郎が部屋に入るなりとっさに筆談を交わそうとするのだが、それぞれの筆談は同時性を持つことができない。筆談をする間、一方は紙面にだけ向かい合って筆を走らせ、他方は一時的にその場から外されたかのように待たされる身となる。そのように面と面を合わせることのない奇妙な間合いと沈黙は、戸惑いと居た堪れなさが2人の感情をさらに切迫したものにしている。二郎が筆談している間にパクも同時に何かを書き始めている様相は待たされることの理不尽さに抗おうとするろう者のリアルな行動心理というものが見事に表象されている。そのようなディスコミュニケーションは、二郎がパクのいる場所から全身体を背けて独り言で妙子に対する思いの丈を語るシーンでピークに達する。コミュニケーションの不可能性によって疎外状況が発生するシーンは他のシーンにもいくつか見られるが、そのほとんどは妙子と二郎とパクの三角関係が同じ場において剥き出しにされる状況である。妙子と二郎が音声で会話する時はパクが疎外され、妙子とパクが手話で会話する時は二郎が疎外されている。疎外する者と疎外される者の視線は交わされないままだが、聴者とろう者が交錯する三角関係に身分の相違や社会性は無意味無価値なものとなり、二郎とパクのそれぞれの矜持だけが妙子という稀有な母性的かつ境界的な存在を通してお互いに対峙している。ディスコミュニケーションの場に現れる視線の不在は、パクと妙子が交わす手話の視覚性が表象されることによってますます強化されていくのである。だが、真のディスコミュニケーションに直面していたのは妙子と二郎の夫婦関係である。息子の敬太が突然亡くなったことで、夫婦の間に潜在していた感情の齟齬が漸次的に表面化してくるのだが、ろう者のパクが出現することで夫婦の感情は「視線の存在/不在」の表象と連結されていく。視線の在り方は人生の在り方を決定する。パクと再会したことで妙子の心情が大きく揺れるのは、手話をすることで目を合わせて会話する身体感覚が蘇ってきたからであり、その一方で二郎は妙子との夫婦生活の中で視線を交わすことを無意識的に避けてきた。二郎は妙子だけではなく以前に付き合っていた元恋人にも逢い引きの際に「目をあまり合わせなかった」のようなことを言われるはめになる。ラストで妙子はパクの嘘に限らず、どこまでも浮遊する非実体としてのパクの視線に翻弄され、挙句の果てには一度は振った二郎のいる家に戻ることになる。再び顔を合わせた二郎に妙子は「私の目を見て」と口ばしる。妙子にとって人生と視線は等価であり、誰のでもない視線自体の復権を果たそうとすることでこの映画はとりあえず終わるのである。2人が出て行った後の誰もいなくなった部屋からベランダ越しの外風景へパンするカメラワークは誰の視線なのだろうか。もしかしたら敬太の視線なのかもしれない。

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