『たぶん悪魔が』 ロベール・ブレッソン

 ロベール・ブレッソンはプロの俳優をキャスティングせず素人を起用することが多いのはよく知られた話である。『たぶん悪魔が』に登場する若者たちも非職業俳優であり、その無表情な顔や自然体というよりはなかばぞんざいなふるまいが五月革命以後のパリの空気感、閉塞感を纏っているかのようにスタンダード・サイズの乾いた画面に映っている。そのような有り様が自殺願望に取り憑かれる美青年シャルルを筆頭に、虚無感に苛まれ無気力に生きるしかない登場人物たちの役柄にまさしく適している。ゴダールがそうであるようにブレッソンも音声の処理に多大な注意を払い、映像のみならず映画における音声の存在を重要視している。助監督を務めた人の話によると、ブレッソンはアフレコを採用する監督だが、通常のアフレコとは違ってスタジオでは俳優に映像をみせないで台詞のみを言わせているそうである。つまり、俳優に画面のなかの自分の演技を同時に確認させることなくもう一度撮影時の演技のゼロ状態に置かせている。撮影時から「抑揚のない台詞回し」は表出されているが、演じている時の感情とアフレコ時の台詞の分断は素人俳優の身体性を超えてブレッソンの思想がより生成されることに繋がっていく。画面の中で発する俳優の身体から独り立ちした台詞だが、依然として対象人物(被写体人物)との関係性を保持しているのを目の当たりにする不思議な感覚やどこかに歪さを内包する画面からは、瞬間の真実よりは全体の真実を提示させられているような気がする。それは音を聴くことができない自分にも無関係ではなく、聴覚の不可能性と作品外の知識からくる関係の転倒を承知しつつも、そうしたブレッソンの独創性を画面越しに曲がりなりにも感じることができるのである。聴覚ではなく視覚としての、ブレッソンが創り出す異様な情景とさえ言ってもいいようなリズミカルな画面の連鎖との相乗作用からそのような感触を得ることができたのかもしれない。文明社会、環境破壊への批判がわりかしストレートに描かれるこの『たぶん悪魔が』でも、やはり例外なくリズミカルな編集を施された画面の束を余すところなく魅せてくれる。若者たちの身体の一つひとつの動き、例えば歩道や階段を歩いたりする移動ショット、目配せするアイコンタクトの連携ショット、ピストルやお金をカバンやポケットから取り出す手の動きのみを映すショット(『スリ』の見事な手捌きを映すクローズアップほど誇張されてはいないが、手の主題的なショットは相変わらず印象的である)。それらの滑らかなショットの連鎖に対して、観る者は感情移入する余地を奪われたまま、ただただ即物的に眺めるしかないのである。森林伐採のシーンでも、木が次々と切り倒されるショットがある一定の時間を持って連続する。そのあいだに車の中で待機するシャルルの姿が挿入されるのだが、無表情の顔や淡白な演技がほとんどを占めるこの映画の中で唯一と言っていいかもしれない、嫌悪感を露わにし両手で耳をふさぐ感情的なショットには一見場違いな印象があり、どこか可笑しみを感じる。それでもそのようなショットでさえシークエンスの一部として機能し、すんなりとブレッソン世界の秩序に馴染んでしまう。伐採された木の切断面の非リアリズムが映るあっけらかんとした、自然物の対象体でありながらも無機質な画面には(映画としての)真実の在りかを知るブレッソンの大胆さと潔さに触れたような気がする。終始虚無にとらわれているシャルルは、世の中のあらゆる事物事象に対して背を向けている。「死」のみにしか目を向けていない。夜の墓地に友人を連れて行き、自殺に見せかけて殺してもらうことでこの映画は終わるのだが、シャルルの理想としていた形とは違う形で殺されてしまうことになる。シャルルは友人に「古代ローマのように」と注文したように自分の死に方に美意識やこだわりを持っていた。つまりシャルルは死の瞬間に崇高なるものを迎え、自分の苦悩を救済してくれることを希求している。それが友人の裏切り(というよりは意志不通のほうが正しいかも)によって自分が死ぬ瞬間を実感することなくあっけなく背中からピストルで不意に撃たれてしまう。友人は倒れて横たわっているシャルルのポケットからお金を取り出しその場から走り去っていく。シャルルの虚無主義や死への美意識はお金の価値に露骨なまでに敗北しはするが、友人が去った後に墓地に残されたシャルルの死体には物質の私的(固有的)な美しさとともに不都合な世界に生きる若者たちの軌跡が刻印されている。