『 Coda コーダ あいのうた 』

 家族のなかでただ一人、耳の聞こえる娘・ルビーが音楽の道に進もうとすることに戸惑う耳の聞こえない父と母。コーダの娘をもつ両親の登場人物は、以前の昔に観た『ビヨンド・サイレンス』(1996年・ドイツ)のろう者本人が演じた両親の2人の姿とオーバーラップする(本作の原作である『エール!』(2014年・フランス)は未見だが、聞こえない両親の役にはともに聴者俳優が起用されている)。『ビヨンド・サイレンス』ではフランス人のエマニュエル・ラボリとアメリカ人のハウィー・シーゴのろう俳優が起用され、本作では本国の著名なろう俳優、マーリー・マトリンとトロイ・コッツァーに加えて、ルビーの兄の役にもろう者のダニエル・デュラントが起用されている。多文化共生のあり方が現代世界で主要なトピックのひとつになっている現在から、20年以上前にろう者の役にろう俳優を起用した『ビヨンド・サイレンス』は先見の明をもった映画でもあったといえるだろう。本作はろう者俳優のキャスティングを基軸におき、コーダの主人公だけを際立たせることなくろう者の家族との等価的関係に意識を向けながら描写されてはいるが、コーダと音楽を繋ぐテーマやプロットを聴者監督が撮る時点で、20年以上前から変わっていない映画的約束事が決定されている。ひとつ屋根の下で耳の聞こえる者と耳の聞こえない者が幾多の困難を乗り越えて家族の絆が強く結ばれていようと、最終的には様々な出来事や局面を吸収したあるひとつの大きな力が聴者のドラマトゥルギーによって(主に耳の聞こえる)観客を予定調和に感動させている。つまり、この映画の到達点には誰もが逆らえない〈音楽の偉大さ〉が待ち構えているのだ。

 ルビーが耳の聞こえない家族の前で歌を歌うシーンは父と兄の漁業を手伝う船の上で口ずさむ冒頭のシーンがあるが、表現者として歌を歌うことと観覧者としてそれを受けること(「聞く」ことができないろう者は歌う姿そのものを「見る」ことのみによって受ける)の対峙する相互関係が表れるシーンは3つある。1つ目のシーンは学校のコンサート場面で、ルビーは最初合唱の中の1人として歌っているが、次のデュエットで歌を歌う際、唐突に画面の音声だけが消えサイレント状態になっている。ルビーの歌声に感動する周りの観客の様相を両親と兄はしきりに見回す。サイレントの場面では、ルビーの歌声を流さないことによって、観る者は音楽空間で聞こえないことの疎外感をもつろう者3人と同じ境遇に立たされることになる。2つ目のシーンでは、コンサートが終わり自宅に帰った直後、父は考え事があると一人きりになったところにルビーが駆け寄る流れで、再びルビーは父に向かって歌を歌う。このシーンでは歌声が画面に流れているが、父は聞こえないルビーの歌声を少しでも知りたく、ルビーの喉元に手を当てて、振動を通して娘の歌声に触れようとする。1つ目のサイレントの場面では周りの様子や反応をうかがうことでルビーの(才能ある)歌声を想像する観念としての行為であったが、2つ目では、歌声を物質的なものとして知覚する行為へと移行し、父は音を聞く代わりに視覚からくる観念と触覚からくる知覚によって、娘にとっての音楽の存在価値、いわば娘の心(精神)を理解していくことになる。そして、3つ目のシーン。音楽学校の入試でルビーは試験が始まっても歌うことができないままでいたが、試験会場の観客席に家族が現れたことで、ルビーは自然発生的に歌声とともに手話表現をし、その2つが合わさった形としての〈手話歌〉を披露することになる。発声と手話を同時に行う手話歌に対して僕は批判的な立場をとっているが、このシーンの手話歌はルビーと家族の間で交わされる私的空間によるコミュニケーションの自然的行為として抵抗なく感動をともなって受け入れることができたのである。しかし、家族に向けられたルビーの手話歌のシーンは途中から歌の音声のみを流したまま、回想シーンや音楽学校に受かった時の歓喜シーン等に切り替えられる。この場面転換によって、ルビー自身のアイデンティティである歌声と聞こえない家族と自分を繋ぐ手話が交錯した、複雑な形としての手話歌が分断されてしまう。家族愛と結びついた歌声はルビーの身体から剥離され、ストーリーに則って観客のエモーションを掻き立てる(感動させる)目的そのものに変容したのである。ルビーの歌う姿をその場で全身をもって受けとめる家族の姿がいつの間にか画面から消え、ルビーの歌声だけが別の画面上を流れる有り様を目の当たりにした時、やはりろう者にとって音楽は別の世界の出来事にすぎないのだという思いに囚われそうになる。サイレントシーンの秀逸さをふいにしてしまうくらいの映画表現であったと感じざるをえない。

 手話と歌の分断はコーダであるルビーの複雑な感情を乗り越えた人生的選択を無きものにしてしまう。その場面の演出には、映画の表層性にとどまらない倫理の視点が孕んでいると言っても過言ではない。あの場面ではルビーと家族にとって、他の何ものや他のイメージにも変えがたい特別な時空間や映画表象が途中まで映っていた。ルビーの歌(手話歌)が終わるまで、家族がいる試験会場のシーンだけを最後まで撮るべきだったのだ。「聴文化」と「ろう文化」の二文化を共有するコーダの特殊性は映画のエンターテインメントとの親和性を導いている。音楽の才能を引き出されたルビーの「歌声」と耳の聞こえない家族との複雑な力関係や葛藤の中で交わされる「手話」。どちらも単体としてはシンプルな強さと豊穣さを有している。しかし、音のない世界の住人の血縁者としてのコーダが音楽への希求をするという構造(ろう者と音楽の対比関係に挟まれたコーダの存在性)には、作用と反作用にも似たベクトルの正反対さを持つがゆえに、作品の内部を引き裂き、感動が生まれる一方で違和感をも生じさせる。本作は音声(音楽)によるマジョリティとマイノリティの力関係が潜在する政治映画であることを、図らずも露呈したのである。かくいう僕はろう者でありながらも、物体的レベルの音しか聞き取れない補聴器の装着によって、シーンにおける音声の有無を判別し、本作に潜む倫理観を炙り出すことができたのかもしれない。だが、補聴器を装着して映画を見る自分とは何者なのかという、ろう者としての自分の存在のあいまいさに相変わらず翻弄されてもいる(べつに悩むほどのことでもなく、その状態をなすがままに受け入れているだけである)。

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