「珈琲とエンピツ」

ろう者である僕はこのドキュメンタリー映画を純粋に観ることはなかなか難しい。ろう者として観たのか、それともひとりの人間として観たのか、どっちつかずのまま映画館を出る。ろう者とはあらためてとても複雑な存在だとつくづく思う。ろう者という存在は耳が聞こえないという身体性というより社会的な関係性で形成される、あるいは翻弄されることのほうがずっと意味が大きいような気がする。この映画の主人公であるサーフショップ店長の太田さんのろう者と聴者の垣根を軽々と越えてコミュニケーションする姿には、感動を通り越して驚嘆してしまう。相手に伝えたいという強い気持ちがここまでにしたことはもちろんだが、これはまぎれもなく才能のひとつでもある(筆談の様子は文字もきれいで見とれてしまう)。もうひとつ驚いたのは、ろう者である今村監督自身のナレーションだ。監督自身も言っているが、不完全な発音を露わにすることを覚悟したうえでナレーションを担当したそうだ。太田さんも今村監督もろう者であるけれど相手に聴者がいれば、自ら音声や日本語の世界に入っていく。これはろう者自身の意識、無意識とにかかわらず聴者とろう者の現実的な社会関係の一部である。マジョリティである聴者に囲まれながら生きていくしかないマイノリティのろう者の生きる術として、声を出したりエンピツを走らせるろう者の姿がある。これは否定も肯定も出来ない一個人の問題であり、十人のろう者がいれば十個の生き方がある。

しかし、表現媒体としての映画ということだけに限定して考えてみるとすれば、この映画内に描かれているような聴者に対するろう者の状況に応じた行動や振舞いが、そのまま映画製作側(映画外部)に流れ込んでしまっている。つまり映画の視線にろう者でも聴者でもない不確定な感じがつきまとうのである。ここにろう者が映画をつくる困難さがあるのかもしれない。ろう者の言語は手話であるというが、手話も日本手話から対応手話まで様々な形があり、音声の有無によって話し方(生き方)も変わっていく。聴者が話す日本語は共同体に流通している共通コードというのを持っているが、同じように手話も共通コードを持っているとは言えないのが現実である。だが、映画内で言語を扱わざるをえない映画監督は最低限自分の言語的立場を明確化しないと作品としてのコアが見えてこないような気がする。 芸術媒体が絵画や写真などの単一的なものから映画や演劇のように総合(複合)的になればなるほど、表現者としてのろう者の存在が否応なく突きつけられてしまうのではないか。ナレーションと同時に日本語字幕が流れているから問題はないかのように見えるが、ナレーションはろう者である監督が聴者のみに伝えるだけのものであり、その瞬間、ろう者である監督とろう者の観客のあいだに距離感が生じてしまう。編集感覚もろう者というより聴者に近いところにある(映画に登場するろう者の手話が途中で切れてしまうのは、ちょっと残念のような気がする)。 ろう者にとっての他者とは、何よりも聴者であることに他ならない。だが、ろう者/聴者という二元論に収斂してしまうのではなく、身体的なものから社会的存在までにいたるろう者そのものにもっと注意深く目を向けるべきではないかと思う。ろう者同士としての他者、あるいはろう者の内面のなかの他者を引き出すことが出来れば、ろう者自身も気づかないような豊かで驚異にみちた世界が出現するかもしれない(日本手話にはそれがある)。ろう者と聴者の垣根をとりはらう対等的な感性でも、排他的なろう者至上主義的な感性でもなく、この世界に存在するろう者そのものを凝視しながら(つきあう)作品をつくっていく。それがろう者である僕の表現者(画家)の使命のひとつでもあると思う。