レオ&写楽

2人のろう者の演出による2つの演劇の対照的な世界。
パリ在住トルコ人ろう者のレヴェント・ベシュカルデシュ演出「レオ&レオ」は音声はもちろん音楽、音響も使わない、ほぼ無音の状態であった。もう一方は、日本ろう者劇団員の数見陽子演出「迷宮の写楽。」であり、台詞による音声はもちろん手話なので無かったが、場面ごとに音響が使われていた。ろう者が演劇を演出するときの舞台上での音声や音響の使用、不使用の違いとは何だろうか。音声媒体を使ったとしてもろう者自身(補聴器使用の場合)には物音レベルや音そのものが流れているという程度までは知覚できても、それ以上の音声世界には届くことができないし、扱うことはできない。「レオ&レオ」ではろう者のみによる創造というスタイルを通したが、「迷宮の写楽。」ではろう者と聴者のコラボレーションという形で作品のなかに音声表現を導入する。対話による役者同士の関係は少なく、役者それぞれが単一の行動をとることが多く、2、3人以上の同時出現ではダンスなりパフォーマンスなりと空間全体を利用した身体表現が大半を占有していて、身体を大きく動かすこと、運動の連続性がこの作品の特長であることは明らかであった。その身体的な運動から生ずるリズム感が音楽的なイメージを伴ってくるので、音響が被さっていくのは自然発生的な感じであった。ろう者の身体から生ずるリズムに音響が合わせていくことによって、ろう者と聴者のコラボレーションが妥協ではないベストな形で成立する。今回が初演出である数見の演出方法は、従来の日本ろう者劇団の常道を出ていない感じは否めないが、写楽=江戸の通常概念を次々と破壊していく時空を越えたカオス的パワーには目を見張るものがあった。

「レオ&レオ」はダ・ヴィンチがプレディス兄弟と「岩窟の聖母」を共同制作した時にクリストフォロ・デ・プレディスというろう者の画家と出会うというエピソードを元に創られたストーリーだそうだが、当時の光景をろう者の視線から想像するという観点に力点が置かれている。登場人物はろう者の画家クリストフォロをのぞく全員が聴者であるため、ろう者俳優が聴者の役を演じる時は口パクで話す格好をする場面が大半を占めていたのだが、まるでサイレント映画を観ているような奇妙な感覚が生じる( 実際、サイレント映画時代には口パク専門のろう者俳優がいたらしい)。クリストフォロ役が台詞を手話で話す場面になると舞台の背景面に字幕が現われる。サイレント映画では、登場人物が無音状態の画面のなかであれこれ会話したり台詞を放ったりするのだが、即字幕とはならない。口パク状態のまま放っているのが常であり、サイレント映画特有の黒画面の字幕はストーリーのターニングポイントとなるような場面の時しか出さないことが多い。この有り様までがサイレント映画の構造に類似しているのだから、ろう者とサイレント映画はただならぬ深い関係をもっていると考えてもおかしくはない。さらに重要なことに、トーキー映画に移行するまえのサイレント映画は音を使えない代償として視覚的表現が鋭利を極めていたのであり、音声や音響とは無関係に演出されたろう者によるこの「レオ&レオ」も視覚的表現を最上位に置かれている。だが、ろう者の演出、ろう者の手話による表現である以上、視覚的表現になることは半ば必然的なことでもあり、手話劇という特殊性がある一方、視覚的表現の普遍性の獲得、ろう者自身による演劇の固有性への肉薄はあったかどうかについては何とも言えないのが正直な印象である。おぼろげな印象を受ける理由のひとつとして考えられるのは、ダ・ヴィンチがろう者の画家に出会い、ろう者から多大な影響を受けたというろう者による推察の面が強調されていることではないだろうか。ろう者としての歴史的矜持性はろう者にとってはとても興味深いものであり、誇らしげな気分にさせてくれるが、芸術表現のなかではもっと慎重に多角的に扱うべきものだと思う。演劇の固有性として生身の身体による言動が目の前に繰り広げられること。現にろう者の俳優が台詞を手話で話す、そのこと自体だけでろう者の存在は肯定的に顕在化されているはずなのだ。ラスト近くの場面で、クリストフォロ役が病に倒れ咳き込む。その時、無音状態のなかで突然咳の音が劇場内に何回も響く。その生々しい原始的な音をろう者の身体から発するとき、肉体的な強度だけが劇場内を一気に支配する。その驚愕さはストーリーの内容を超して忘れがたい体験として身体に残っていく。