「感動」に感動する

今、一冊の写真集を手にしている。ろう者の写真家、斉藤陽道さんの初写真集、タイトルは「感動」。すごいタイトルだ。一歩踏み外せば、うさん臭く偽善的な言葉にも捉えてしまいかねないが、僕は文字通りマジ感動してしまった。被写体に対する斉藤の眼差しがどこまでも透き徹っている。その視線は単純であったり複雑であったりするが、シャッターを押す瞬間、被写体に向かって天使の眼差しが発散するかのようだ。同時代的な感覚をもった天使。天使の眼差しはプリントのなかでは光となって出現する。ろう者は聴覚を持たない代わりに視覚的に生きなくてはならない人種であり、ろう者の身体は聴者以上に光の存在を欲求していく。だが、斉藤の光はモノや輪郭を浮かび上がらせるためのシャープな光ではなく、被写体を包容する柔らかな光となって現われる。

障害者の被写体を中心に構成されているような印象を受けるが、斉藤がろう者であるがゆえに意識的にしろ無意識的にしろ、障害者という括りのなかでそのような環境に居合わせただけなのかもしれない。むしろそれぞれの障害者は他の被写体と同様にたんに斉藤の被写体自体として写っている。社会的弱者やマイノリティとしてのそれではなく、現在の社会の一部を構成する人間のそれとして写っているのであり、それを強く感じさせるのは写真集の前半から中間にかけて多く出てくる2点のプリントを左右対称に置いた相関関係から生じるイメージである。ゲイ(女装家?)の衣装の青模様と雪に埋もれた森林の青い風景、白いオーバーコートの女性とすらっとした百合の花、室内の斜め光線に合わせて頭を傾ける車椅子の男性の顔と鷹匠の腕に乗っている鷹の顔、木漏れ日に当たる太った男性と樹木の幹など。そのようなシンメトリカルなイメージから生ずる類似性は人間、動物、モノ、風景の連繋関係で世界は成り立っていることのメタファーでもある。世界のなかの構造を新しい感性で切り取ったそれらのイメージは何故かとても清々しい。写真家の視線と被写体の視線が光のなかで同質的に交差する(牛腸茂雄ダイアン・アーバスの被写体の視線は写真家や見る者を跳ね返す)。それが斉藤の世界との関わりかたなのだろうと思う。実際に斉藤さんにお会いし、「写真集の真の主題は光ではないか」と聞いたら、「光と闇の両方だ」と答えられていた。今後の斉藤の写真には闇の部分にも注目してみたいと思う。

「感動」写真展 http://www.akaaka.com/gallery/g-upcoming.html