子供は運動を通じて成長する

相米慎二の映画が日本語字幕付で見られるのは、半ば奇跡に近いようなものだ。先日、東京フィルメックス映画祭のバリアフリー事業の一環として「夏の庭 The Friends 」の日本語字幕付上映があったので、銀座の東劇へ期待をもって行ってきた。その結果、もちろん字幕のおかげでストーリーの内容を知ることができたのは良かったが、それ以上に僕の想像を越えた映画的体験、相米的体験があり、字幕はあってもなくても関係ないといってもいいくらいにとても素晴らしかった。映画的、相米的とは一言で言えば<疾走感>ではないだろうか。相米の撮る映画に子供が主人公であることが多いのは、疾走感を表現するのには子供が相応しいと考えていたからかもしれない。理知獲得以前の姿で世の中の不可解さに対して全力でぶつかっていく。相米は子供特有の疾走感をストーリーの内部にはめ込むのではなく、運動としての疾走感をカメラのなかに収める。3人の小学生が老人をストーカーする移動シーンは視覚的快楽を感じないではいられない。河川の橋を老人が渡る時、ついてくる3人に橋の欄干を傘で叩いて威嚇した後に、老人は画面の手前の歩道、3人は向こう側の歩道(画面奥)へと分かれる。河川を挟んで二手に分かれた老人と3人の小学生のゆるやかに並行しながら同時移動していく場面は一見何でもないようにみえるが、画面の奥行きを利用した純粋な運動自体に引きつけられてしまう。老人という他者との出会いによって死を身近なものとし世界観を広げた子供たちだが、年齢差を越えた交遊とともに空間的な交通も獲得するのである。他者の存在によって交通が発生する。3人の小学生はストーカー行為によって老人の速度を身体で体感していく。子供はひきこもるべきではなく、交通空間のなかにいてこそ成長していく。映画のなかで子供らしさを生かすのは、演技指導でも、子供の身体性とキャラクター性でも、子供が居るべき環境でもなく、どこにでも開け放たれている空間そのものである。空間があるから運動あるいは交通が生じるという当たり前の事実をこれでもかというくらいに、相米は画面のなかに様々な運動を丁寧に導入していく。これが映画的と言わずに何と言えようか。ラスト、世の中からいなくなった老人の家の庭で、3人は集合地点から3方向に分散し潔い別れを成し遂げる。最後の最後まで、相米は運動を手放さなかったのである。