映像のなかの映像

今年も残りわずかになったが、大震災と手話指導を始めた影響で例年より映画の鑑賞数が激減した。その限られた映画体験のなかで僕にとっての最大出来事は、マルコ・ベロッキオの発見であった。年末の「夜よ、こんにちは」と「愛の勝利を」の連続鑑賞は他にも代え難い至福な映画体験となった。「夜よ、こんにちは」は鉛の時代(60年代後半から80年代の極左グループによるテロリズム)の映画特集で観たのだが、同特集で若松孝二の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」も観ており、テロリズムをとりあげたイタリアと日本の2本の映画には、映像のなかの映像が多用されていてその映像の使い方が対照的だったことが気になったので、そのことについてちょっと取り上げてみたい。

実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」は190分と3時間以上の長丁場だが、ちょうど約1時間ごとに3パートに分けた構成になっている。「連合赤軍結成のバックグラウンド」「山岳ベースの発足から総括リンチへ」「あさま山荘の籠城と銃撃戦」といった感じの3パート構成になっているが、最初の1パートでは全共闘運動の熱気とうねりが生々しく映っている当時の記録映像が連合赤軍結成までの流れを説明するように次から次へと止まることなく繋ぎ合わされている(演出映像も少し挿入されている)。洪水のような白黒の記録映像群は2、3パートの現在に撮られた安定感のあるナラティブな映像と並置されていると、あまりの不安定さと暴力的な荒々しさが画面の表層を覆っているのが際立つ。当時の社会情勢の熱気とフィルムの粒子が合わさった表層イメージは現在の世界をただよう感覚から大きく隔たっているような感じを受ける。1パートの記録映像を2、3パートの演出映像へと接続し、映画内部で相補的な関係をつくっているのだが、実際的な記録映像とフィクショナルな映像のあいだには、表層イメージや映画内役割の違いというレベルに留まらない大きな断絶が横たわっている。イメージの質の違いが感触や規定を越えたところから出現している。2、3パートの演出映像では生身の身体をむき出しにされた現代的な若者(俳優)たちが物語内部でジグザクな戯れを展開しているが、記録映像は当時の状況をテキストとともに羅列的に画面の表層をなめらかに滑走する(ナレーションについては聞こえないので答えようがない)。「実録・連合赤軍」は時系列に構成されているが、若松は映像のなかの映像である記録映像を演出映像とは別の空間に、物語の外部に置いたままにしている。

ベロッキオの「夜よ、こんにちは」は、1978年に起こった極左グループ「赤い旅団」によるモロ元首相誘惑暗殺事件を扱った映画なのだが、ここでもテレビ映像や古い映画の一場面など、映像のなかの映像が多用されている。特にテレビのニュース映像は主人公のテロリストが自身の起こすテロ事件から世間の反応を随時に伺うためのツールとして頻繁に登場する。テレビ映像はアジトの狭い内部空間のなかに進入し、外部の世界の情勢をダイレクトに伝達する役割を果たしているのだが、テレビ映像の走査線による画質低下気味のぼんやりとしたイメージがテロリズム時代の不気味さを助長している(古い映画の一場面は主人公の夢のなかに現われる)。「実録・連合赤軍」の記録映像が物語の外部に置かれているのに対し、「夜よ、こんにちは」のテレビ映像などは物語内部の歯車の一部としてしっかりとはめこまれている。 若松の記録映像がメタレベルならベロッキオのテレビ映像やフィルム画面はオブジェクトレベルといったらいいだろうか。 ベロッキオの最新作「愛の勝利を」でも、チャップリンの「キッド」など映画フィルムの白黒画面が戦場病院や夜の野外スクリーンと様々な場所を変えながら登場人物と同一時間、同一空間のなかに出現する。 ベロッキオの映画に登場する映像のなかの映像は映画の虚構的内部のなかで物語と登場人物の絶対的関係を形成している。だから「愛の勝利を」の断片的に現われるムッソリーニの演説の記録映像が登場人物と別空間であったとしてもスムーズに物語内部と連結しているのである。つまり同一的な次元のなかで登場人物の精神状態とリンクする、あるいは感情移入を促す映像として成り立っている。ベロッキオはイメージをたんにそこにあるもの、見えるものとして視覚的に徹底化している(もちろん音も一緒である)。映画内部に留まりつつ、台詞より映像を上位に置いている。それに対し、若松は外部から「実録・連合赤軍」を饒舌な映画にし、イメージを見えるものから見えないもの(シンボル、言葉)へと弁証法的に映像のなかの映像を使っている。もちろん意味は全然違ってくると思うが、総括リンチと同じ構造で若松自身も鉛の時代を反省的に「実録・連合赤軍」を撮ることで、現代人に何らかのメッセージを送っている。では、ベロッキオは何を描いたのか。何にも描いていないのである。ただ、見えるものと見えないもののあいだを無効にし、見えるものを徹底化しただけである。最後まで画面に残すのはテレビ映像のぼんやりとした肌理と古い白黒フィルムのざらついた肌理から生ずる得体のしれない不気味なイメージだけである。徹底化されたイメージは時空を越えてしまう。不気味さとともに映像のなかの映像に出現する歴史的イメージを登場人物と観客は共有する。ベロッキオは映画の外側(観客)と内側(登場人物)を同一次元に置き、視覚的で現前的な世界(イメージ)を撮っているのである。