『シチリアーノ 裏切りの美学』 マルコ・ベロッキオ

 シチリアマフィア界の大物幹部やファミリーが勢ぞろいする夜の煌びやかなパーティ。表向きは穏やかな雰囲気を醸し出しているが、パーティを名目にしてマフィア組織の二大勢力の仲裁を試みるパレルモ派大物ブシェッタは会場の随所に不穏な空気を感じ取る。建物内の賑やかさと建物外の静寂さを交互に見遣る、ブシェッタの緊張感をともなった視線の動きを丁寧に追うシーンはベロッキオの過去作品から抜き出された幾つかの印象的なシーンと交錯するように僕の脳内にオーバーラップされてくる。登場人物の情動の初期段階に生起する心の機微を周辺の事象と織り交ぜながら穿つ巧みな描写にはベロッキオならではの、ただならぬ不吉な予感が映画の始まりにおいてすでに現れている。パーティ会場の外にある砂浜でぐでんと酔っている前妻の息子を建物内にいる現妻へ預けた後、夜空に花火が打ち上がる中でパレルモ派ボスのカロと友情の約束を交わす、ドメスティック的な繋がり(血縁関係、仲間意識)に価値を置く抑揚を抑えたカット割りは、家族の悲劇と仲間の裏切りに直面するブシェッタの後期の人生を決定するターニングポイントとして浮かび上がり、引き金となる映像イメージとして、効果的ではあるが静かなる映像の余韻を映画の最後まで響かせている。パーティのシーンが終わると、夢幻的なシーンとは打って変わって、コルレオーネ派の冷酷無比な報復シーンがリアリスティックに次々と映し出される。殺害シーンの画面隅に表示される、最終的には三桁までいく殺害された人数のカウントは死亡者がただの物体に成り下り、悲惨さに対する人間の感情を無効化し、実際の出来事を映画表層に移行する時のフィクション性の記号として機能し、現実と虚構の間に観る者を宙吊り状態にしている。映画における揺るぎないフィクション性はブシェッタが仲裁に失敗し逃亡した先のリオデジャネイロでのシーンに引き継がれる。ブラジルの警察に拘束されイタリアに送還されるまでの衝撃的で凄みのあるシーンの連続がテンポよく進行し、淀みのないひとつのシークエンス(ブラジルでのブシェッタ)を形づくるエンターテインメント性が余すところなく発揮されている。ブジェッタの情報提供によって大量逮捕されたマフィアを裁く裁判のシーンもやはり実際に起こったエピソードで構成されている。動物園の檻みたいな小空間が幾つか半円形に連なる壮観な法廷空間にイタリアを象徴するコロッセオを連想せずにはいられない、イタリア的イメージの連鎖はこの映画にとっては自然な成り行きでさえある。檻の中で叫んだり挑発するマフィア達と、国家に厳重に守られながら証言するブシェッタとコントルノの滑稽ぶりな対立には面白おかしさが溢れている。ベロッキオはマフィア抗争を実録的に撮る時に付随するシリアスさからコミカルさを省くことなく人間の本質全てにそのまま対峙している。ファルコーネ判事がマフィアの報復に遭った後の再出廷を挟んだ、アメリカでの身を潜めた保護生活のシーンの停滞感は威厳や迫力を持っていた往時の姿を失ったブシェッタの無力な姿を浮かび上がらせている。組織の一員から外れた個人の無力性に漂う空虚さや孤立感は何故かアメリカの地に合うような気がする。ブジェッタというひとりの人間性を終始見つめたこの映画は、アサイヤスの『カルロス』(2010)に多くの類比関係を見出すことができるかもしれない。カルロスのヒーロー志向(テロリスト)とブジェッタのアウトロー志向(マフィア)は相反するが、どちらもその世界の「英雄」として生きてきた後の敗北感と徒労感を一身に背負った、世界からクロージングする身体性がスクリーンに映し出されている

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