『新学期操行ゼロ』 ジャン・ヴィゴ

 フランソワ・トリフォーのデビュー作『大人はわかってくれない』が世に出るきっかけとなった映画とも言われているのが、ジャン・ヴィゴの『新学期操行ゼロ』(1933年)である。無政府主義の活動家の父を持つジャン・ヴィゴはドキュメンタリー2本と劇映画2本を遺してわずか29才の若さで亡くなっている。新学期に合わせて帰省先から寄宿舎に戻る一人の生徒が夜行列車の客席にいるシーンからこの映画は始まる。途中から合流してきた生徒と車内で手品を披露したり、次から次へと出てくる小道具で悪ふざけをしたりするのだが、しまいには葉巻をふかし車内を煙いっぱいにする。アナーキーな映画の始まりに唖然してしまうと同時に映画を見始める時の身構えが早くも無効化し、観る者の感覚をいきなり全開(無防備)にさせられてしまう。少年たちの好奇心に満ちた純粋無垢なアクションが白い煙に覆われる白黒の美しい画面は映画の原点を見せられているようでもあり、その継続されたサイレント的表象は終盤の伝説的な枕投げのシーンへ受け継がれていく。寄宿舎の抑圧的な生活に耐えかねた生徒たちが寝室内で怒りを爆発し、誰からともなく枕投げが始まるのだが、騒乱がエスカレートするなかで、破れた枕から大量の羽毛が乱舞し部屋中を覆い尽くす。暴れまわる生徒たちと舞い上がる羽毛の戯れはスローモーションで撮られている。現実の時間感覚を逸脱した夢幻的なシーンは、生徒たちが起こす喧騒に流れる速度を半減することによって、真逆の静謐さが現実的感覚の息苦しさから生徒たちを自由へ解放するかのようである。スローモーションは映画の外部からの表層次元のメタ的手法であり、生徒たちの行動と意味関係を結ばないはずであるのだが、生徒たちの自由への渇望が映像イメージそのものとして、ジャン・ヴィゴの視線を通して現実の閉塞感を超えた異次元としての自由空間を引き寄せている。ゆっくりと舞い上がる羽毛は生徒たちにとっての無数の天使たちでもあるのだ。手に負えなくなった舎監をよそにドクロマークの旗を揚げて行進する生徒たちの姿にはアナーキズムの真髄に触れ得るような気さえするが、白衣の行列には一転、厳かで荘厳なイメージをもたらしている。それゆえ自由への希求にはある種の不気味さ(のイメージ)が表裏一体にもなっている。抑圧の象徴として描かれたはずの校長(確信犯的に小人に役を与えたふしがある)を筆頭に教師や舎監といった大人たちは、権威的に振る舞えば振る舞うほど滑稽な存在になり、能天気な新任教師ユゲをはざまに置いて、やんちゃを働く生徒たちと同列のユーモラスな存在にされてしまう。冒頭の夜行列車の車内における台詞を一切発しないアクションの連続性、新任教師ユゲの荒唐無稽な振る舞いやパントマイム的行為、投げられた枕や乱舞する羽毛、屋上から式典中の校長や来賓を目掛けて次々と投げつけられる古靴や古本などの事物の即物性や即時性といった直接的(シンプルさ)な描写には純度の高いナンセンス精神が炸裂している。サイレントからトーキーへ移行する渦中に制作された『新学期操行ゼロ』には、チャップリンなどのサイレント時代の偉人からジャック・タチやトリフォーなどのフランス映画の後継者にまでいたる、様々な跡形や原型が宝石箱さながらに溢れている。