サイレント映画であってサイレント映画ではない

最新の映像技術がたえず更新されていく現在のなか、白黒のサイレント映画を撮る意味は何だろうか。2011年製作のサイレント映画「アーティスト」はサイレントからトーキーへ移行する激動期のある男優とある女優のメロドラマを描いている。この映画では、サイレント映画のなかの演技(映画スターとしてのジョージ)と映画撮影以外のシーンの演技(恋愛者と生活者としてのジョージとペピー、あるいは他の者たち)を分けることなくサイレント映画特有のオーバーアクション(誇張する演技)がそのまま地続きしているのだが、その場面状況を超えた俳優の所作には奇妙な感覚を覚える。さらに奇妙なのは、ペピーが唯一トーキー映画のなかでオーバーアクションを押さえた演技をしていることだ。この映画にも描かれているようにトーキー映画が出現した時、音声を伴う演技が洗練された所作として当時の観客に迎え入れられサイレント映画のオーバーアクションは時代遅れのものになっていくのだが、ペピーはトーキー映画の撮影が終わると再びオーバーアクションに戻る。このメタサイレント映画(?)の前後不覚な映画構造は、サイレント映画時代の当時状況と現在のイメージとしてのサイレント映画のズレが混合し、現在の人々がもつ遠い昔の美化された幻想としてのサイレント映画のイメージが顕在化している。
サイレントからトーキーへの移行のなかでサイレント映画の大スターのジョージは、頑として音声の世界を拒否し続けた結果、時代の流れから取り残され没落していく。だが、トーキー映画のヒロインに上り詰めることに成功したペピーのアイデアで、あっさりとトーキーによって可能となったミュージカル映画に出演し喝采を浴びることになる。その時これまで続いた音声なし画面(音楽は最初から付いている)に突然音声が入ってくる。メタサイレント映画の終了である。このハッピーエンドに花をそえるように音声が出現した時、サイレント映画の世界に身近なものを常時感じている僕(特殊な立場ではあるけれど)は映画会社の社長からトーキーに変えると宣告された時のジョージの境地と同じようにスクリーンから大きな敗北を強烈に感じてしまった。まじでノックアウトされた気分だ。何に?エンターテインメントの絶対性とペピーの純愛にである。映画史はサイレントからトーキーへ、白黒からカラーへ、フィルムからデジタルへと技術面の発展を遂げてきたなかで現在の映画の形があることについて否定する理由は微塵もない。むしろ世界は時代とともに刻々変化していく。だが、ラストでサイレント映画への決別と新しい世界の歓迎を表明するこの2011年製作のサイレント映画では、白黒と無音声(あるいは黒画面の字幕やオーバーアクション)は音声というネタの手品の道具でしかない。ラストに音声が突然出現するこの映画は、ラスト直前までサイレント映画の体裁をとってはいるが、やはり音声付フィルムもしくは映像メディアで映画を撮ったという物質的事実から逃れられない(最後まで白黒画面だったが、撮影の時はカラーで編集の時に白黒に変換したそうだ)。当時のサイレント映画は物質的に音声や多色を生み出せなかったがゆえに、サイレント映画特有の視覚的表現が次々と編み出されてきた。オーバーアクションもそのひとつである。 媒体の物質性から形式と内容が生み出されていく。そこに映画生誕の1895年から1930年代前半までのサイレント映画と2011年製作サイレント映画の本質的な違いがある。「アーティスト」はサイレント映画であってサイレント映画ではない。当時のサイレント映画は、サウンドトラック無しのフィルムという聴覚器官をもたない身体性(物質性)から必然的に生まれたまぎれもない視覚的芸術作品なのだ。ラストではペピーとのダンスをカメラの前で披露したが、自分の声をさらすことは最後までしなかったジョージだけがこの映画内でサイレント映画的身体性を持続していたことが、僕にとっての唯一の救いだった。