この冬、いちばん静かな驚き。

訳あって、20年以上ぶりに北野武監督の『あの夏、いちばん静かな海。』を観ることになったのだが、新鮮な驚きが今になっても僕のなかにずっと響いている。北野は当初サイレント映画にしたかったらしく、この映画ではろう者のカップルを主人公にすることによって台詞を極力省いている。ろう者のカップルの台詞はサーフショップでサーフボードを物色するシーンで茂(真木蔵人)が貴子(大島弘子)に言う「お金、いくら?」と、海岸で茂が着替える時に貴子が「飲み物、買いに行く」と茂に伝える台詞の2回のみだ。どちらも手話で表出していて、二言三言しかない。ろう者のカップルと少なからず関係をもった周辺の聴者たちは2人のろう者を囲むようにして会話や台詞を発するのだが、あくまでも周辺に散らばったまま映画の中心に入ることはない。ろう者のカップルは黙ったまま行動を共にしたり、相手を待っていたりするだけである。北野は平行モンタージュを多用した画面のなかでその沈黙した2人の空間を淡々と描写する(聴者の台詞はろう者と交わることはなく、ここでも平行の関係が生ずる)。台詞の代わりに緩やかな一挙手一投足の運動を執拗に反復させる。サーフボードの前後を互いにもって歩くシーン(バカっぽい少年2人も同じことをする)など、ただひたすらに歩くシーンが頻出する。歩行シーンの横移動や反復、人物や物の水平的な配置、インサートショットの多用、海のあるどこも似たような晴れた日のがらんとしたロケーションの繰り返しが連なって、独特なリズムを生み出している。北野はろう者の2人に台詞だけではなく感情の起伏も極力与えずに、ミニマルなアクションだけを提示するように演出する。ろう者を主人公にしたのは、北野がもつサイレントイメージを創造するのに都合の良い設定であったことはろう者の僕でもすぐに推測できる。言葉と物語よりイメージと映像を徹底的に見せる。ろう者としての描写がどうのこうのより、ろう者の2人は世界から疎外された立場(音声や情報から遮断された存在)としてのリアリズムを象徴している。世界から排除されるという意味ではなく、多数者と少数者の現実的な関係を可視化、単純化している。ろう者のカップルをめぐる背景や説明を省略したその先にはろう者としての2人ではなく、たんにサーフィンに没頭する男性と彼をたんに見守る女性の、寡黙のなかでルーチン的な動作をこなす2つの肉体的存在があるだけだ。社会から見放された2人の存在と直接的に関係をもってしまった周辺の者たちは、戸惑いつつ自らも赤裸々な存在へと変化していく。その変化の過程を映し出す画面には、北野の冷静ながらも優しい視線が織り込まれている。聴者たちと一緒にいるときのろう者カップルは水平的画面のなかで物体が並べられるように並列的に置かれているのだが、海が映らない別の空間で2人だけになる場面では、それぞれを正面向きにとらえた切り返しショットが使用される。お互いの顔を見つめる時の正面ショットにはろう者としての顔が微かな感情とともに映る。真木の「お金、いくら?」の台詞のときの顔の表情や台詞の間(ま)は実際のろう者とほとんど変わらない。北野はろう者が視線の人間であることを本能的に理解しているのだ。2人のろう者は映画のなかで言葉を省かれた非現実的存在として描かれている。だが、現実的存在としての聴者と関係を持つことによって、世界の姿としてのリアリズムのなかでさらに現実を突き抜けた存在となっている。
*4月開催の東京ろう映画祭で上映予定。https://www.tdf.tokyo/