メディアの中の「ろう者」像と「当事者性」について考える

 以前にブログで取り上げた『コーダ あいのうた』は、今年のアカデミー賞で作品賞、助演男優賞、脚色賞の3冠に輝いた。日本では海の向こうの快挙を受けて、当作品の上映館の拡大とロングラン上映決定が続出したとのこと。ろう者としての僕は、ルビーの父役を演じたろう者の俳優、トロイ・コッツアーの助演男優賞受賞が我がごとのように嬉しい出来事となった。男性のろう者の俳優で初のオスカー受賞者になったトロイとともに、妻役のマーリー・マトリン(ろう者史上初のオスカー受賞者)や兄役のダニエル・デュラントを含めた、この映画におけるろう者の役者のキャスティング自体に、世間の一部はフィーチャーしているようだ。日本では映画やドラマのなかでろう者のモチーフが一段と散見されるようになり、また、メディアや芸術創作の様々なところでろう者の役者が仕事をする機会が増えてきている。一昔前では想像できなかったことがここ最近頻出しているが、「ろう者」を取り巻く演技表現の環境は「多様性」の社会的意識化とともに漸次的に変化し、「ろう者」としての表象が二、三の角度から現れ出てきているのが現在のフェーズと言ってもいいかもしれない。これまでの映画やドラマに描かれてきた「ろう者」像のほとんどは聴者によって形作られ、観賞者(ろう者も含めて)もそのイメージをなすがままに消費してきた。しかしながら、『コーダ あいのうた』に見られるように、世界でも日本でも社会の周縁に甘んじられていたろう者の俳優に陽が当たるようになった現今では、聴者による「ろう者」のイメージと当人としての「ろう者」の実在性の、メディア(主に創作系)における非対称性の構図が崩れ落ちようとしている。そのような変化はろう者側だけではなくろう者以外の人々、いわゆる多数派の人々からも目に余る状況になりつつあり、その中から「当事者性」というキーワードが出現してくる。

 これまでに聴者によってつくられてきたメディアの中の「ろう者」像に対して違和感を抱き続けていたろう者にとって、「ろう者」の役は「ろう者」が演じることの当事者性を希求することは、人間としての普遍的な感覚/感情が前提となった、同じ属性からくる自然的行為であると言っても差し支えないだろう。理不尽さを孕む状況を前にして自然発生的に湧き起こる感覚/感情とともに、長年にわたってマジョリティが築き上げてきた社会のシステムに抗う反骨精神の起点としての感覚/感情もまた、ろう者=マイノリティの身体のなかに生成されているのである。ろう者が抱く、聴者による「ろう者」像に対する〈感覚〉と理不尽な社会システムに対する〈感情〉は、「ろう者」の表象を扱った作品の社会的な位置づけに関わる問題であり、社会の中の存在論的な問いにリンクされる。つまり、マジョリティとマイノリティの間での不均衡な力関係の中で「ろう者」の表象を扱った作品とはどうあるべきか?が問われてくるのである。〈感覚〉の問題としては、「聴者=マジョリティ」が「ろう者=マイノリティ」を演じることで両者の感覚や認識がずれたまま、メディアの中でマジョリティによって一方的に流通されてしまったり、手話への十分な理解を得ることなくマジョリティ側の都合に合わせた手話(のようなもの)が表現されてしまうなど、感覚の相違を通じた様々な意味での広義の差別を大いに孕んでいる。〈感情〉の問題としては、差し当たり考えられることは当事者の雇用に関わる問題であり、「ろう者」の表象を使う際に、ろう者の俳優に積極的にその役、仕事を与えるべきだという倫理的ロジックが浮かび上がる。よって、ろう者=マイノリティの〈感覚〉や〈感情〉は属性的なものから導き出され、ひいては言語性や社会性の問題につながっていくのである。

 そのような社会的・存在論的な観点からくる「当事者性」の問題意識には、映画やドラマなどのメディア作品が人為によってつくられた虚構の世界であるという、(芸術/エンターテイメント)作品の創造性としての内在的な問いから一歩引き下がってしまう、あるいは一旦保留せざるをえない状態になってしまう可能性も正直拭いきれないところがある。マジョリティとマイノリティの不均衡関係を解消することが第一に目指されるべきであり、その先に平らに均された場・空間で「作品をつくること」や「演技をすること」の本質に論が移るという順序的な観点には倫理的な正当性がそこに認められるかもしれないが、〈社会的・存在論的な問い〉と〈作品の創造性としての内在的な問い〉を同時進行で考えていくことこそが過度に過ぎた教条主義や芸術至上主義に陥らない思考法になるのではないかと私はろう者/当事者の側に身を置きつつも感じている。というのは、手話使用者であるはずの「ろう者」の身体が音声社会の中で揺らぎ続ける身体であり、ろう社会は一枚岩ではない現実を肌に感じているからである。「当事者性」はメディアにリアリズムを求めることであるが、そのリアリズムというのは、言語使用形態の面に大きく表れる。メディアの中で人物が描かれる際、その人物がどんなコミュニティ(文化)に属し、その言語をどのように使っているのかという外面性の描写から始まる。非当事者による演技だとその外面性のリアリズムをクリアすることはほとんど不可能に等しい。だがその一方で、一枚岩ではないろう社会で手話を使うにしろ手話を使わないにしろ、マジョリティ=聴者と共生するしかない中で様々な影響を被っているリアルな現実というのがあり、ろう者としての「当事者性」が求める言語使用形態のリアリズムと対置する際に、両方の整合性より両方の間に横たわる不確実性が勝ってしまう。むしろ不確実性が増している現代社会ではリアリズムというよりは、内在的なリアリティというものが人々のあいだで共有されているのではないか。虚構の世界でしかない映画やドラマなどにはモチーフや素材に現れるリアリズムよりは、監督や演出から発される視点や世界観から生ずる時代性とリンクしたリアリティが作品の上位に置かれるべきなのだろうと私は思うのである。属性に基づいた当事者性の相関関係には必然性の真理があるかもしれないが、「当事者性」がすべて属性に還元されてしまうことは、芸術/エンターテインメントの表現世界の可能性を狭めてしまうことになりかねない。ただ、先に述べたように「ろう者」の当事者性問題はマイナーかつ視覚言語である「手話」の存在による言語的側面が強く結びつくのであり、「属性」と「個体」の間に社会性も絡んだ複雑な関係が横たわっている。マジョリティ側で論ずる「属性」と「個体」の本質への問いは、多数派が支配する社会で使われる言語の安定性の上で行われるがゆえに、マイノリティの少数言語が持つ危機感や緊張感とは無縁である。「ろう者=手話」としての当事者性は、少数言語のリアリティが「個体」を超えて「属性」の問題に結びつき、メディアの中の「ろう者」像に言語的リアリズムを求めざるをえなくなる。そのような複雑さと緊迫さを孕んでいるために、どこから手をつけたらいいのか定かでなくなり、ろう者=マイノリティの立場からすれば、一足先に〈作品の創造性としての内在的な問い〉に移行しづらい状況にはなっているようにも思う。『名もなく貧しく美しく』の小林桂樹の奇跡的な演技や『あの夏、いちばん静かな海。』の真木蔵人の一瞬の表情に出会ってしまった私は、当事者と非当事者の間に「演じること」の可能性や価値の多次元性が無限に内在していること(もちろんその先には多様性の中の自律性や本質的なものへの問いが待ち構えている)をとりあえず信じるとでも言うしかない。