『彼について』(2018年/イギリス):テッド・エヴァンズ

 「私は平安を与えよう 私が与える平安は世の平安とは異なるが、心を冷静であれ」

 移動中の列車内でサラが座席に座っているショットに上記の神父の言葉の前半部分が被さり、その言葉の後半部分と同期する神父の説教に傾聴するロバートの父がいる教会の厳かな内部が映る次のショットに接続される。列車の車内と教会の内部の2つのショットを繋ぐ神父の言葉は2人の対象者にたいして異なる意味と質をそれぞれに付与している。ロバートの父にとっては、息子を失ったばかりの自身の置かれた状況にたいする救済の言葉であり、精神に届く言葉として直接的に与えられている。その一方で、10年間交際したロバートの恋人としての立場を有するサラにも、時間と空間を横断した映画的表象としての間接的な言葉が届けられているかのように見えないこともない。しかし、神父の口から吐き出される音声の形をしたその言葉は映画的表象としてサラの姿と重なっているものの、サラ自身がろう者であることによって、その言葉は同じショットに宿されているがゆえに、乖離的な関係が滑らか(まさに滑らかなのだ)に映っている。つまり、ろう者のサラにとって神父の言葉は自身に届くことのない(結びつくことのない)無関係な、たんなる他人の言葉として表層的に、あるいは物理的に併置されているに過ぎないのであり、同一ショットにおける分離と倒錯がほんの数秒間に出現している。スクリーン内の映像と同期しない音声という映画技法(ボイス・オーバー)としての機能美からの逸脱とさえいえよう。映画の表層に現前し、聴覚と視覚のあいだに横たわる不条理性は映画的表象のみならず、現実的事象としてろう者を包囲してもいる。ろう者にとって、音声は意味作用をもたされることなく、たんにそこにあるしかない、聴者以上に非実体的な存在であり、ろう者にさえ常につきまとう権力的な存在としてもある。だが、神父の言葉のうちに語られる「平安」はサラの心情にも結びつくかもしれない言葉であるどころか、サラの破壊対象としての「平安」に転化することになる。ロバートの父が神父から受けるのは、偽りの「平安」であり、発声によって導き出される「平安」を破壊する異分子として、サラはロバートの父の前に突如出現する。神父の言う「私の与える平安」の精神性にたいして、「世の平安」は日常や世情の安定さを指しているのだが、ろう者は「世の平安」からも遠ざけられた存在(マイノリティとしての存在)であり、サラはロバートの父が隠蔽してきたろうの世界から立ち現れた異分子なのである。救済と破壊の両義性を含有する「平安」の言葉が列車(運動)と教会(静止)の2つのショットを繋いでいる。

 サラはロバートの遺体と会うために(遺体はすでに焼却されて遺骨になってしまったが)ロバートの父のもとへ向かうのだが、ロバートの父の頑なな拒否によって2人は衝突を都度繰り返す。だが、相互理解や認識共有を図ることの実現不能より、サラの「手話」とロバートの父の「発話」の異言語同士、しかも異なる音声言語ではなく視覚言語と音声言語という感覚器官の相違による物理的な実現不能が真っ先に表れている。ろう者と聴者によるディスコミュニケーションが前景化しているのだが、互いが言葉より感情そのものを相手に激しくぶつけ合っている。コミュニケーションの不可能性がそのままの形でむき出しにされる状況は、感情が先行し後から言葉が引っ張り出されているような感覚が生じる。だが、同じ背景を持つ者同士(ロバートに深くかかわる人物として)による不可避の事態が相手の言うことがわからないにもかかわらず、必然的な対立関係が生起している。必然的であるどころか、むしろ自然な関係を共有しているとさえ言っていいかもしれない。このようなディスコミュニケーションはろう者と聴者のあいだで起こる特殊な状況ではなく、身分性の相違にかかわりなく誰しもが経験する普遍的かつ根源的な、記号化以前の言語行為なのだ。「手話」と「発話」の差異が感情の先行というアプリオリな状態を顕現化し、コミュニケーションの本質を浮かび上がらせる。衝突し合うサラとロバートの父のディスコミュニケーション的な対立関係はいわばダイアローグの不可能性でもある。サラはダイアローグの失敗を取り返すべき、ロバートの父がいつも通う近所のカフェで手話を音声通訳する友人の協力を得ながらモノローグを行うことになる。サラの背後にはロバート(とサラ)のプライベート映像が投影され、サラは自身が受けてきたロバートの人物像について静かに語り始める。そのことによってロバートの父は頑なな態度が次第に溶解し、息子の遺骨の入った小壺をサラに譲り渡し、謝罪の一言を述べる。それ以降は、サラとロバートの父の心を開いたささやかな交流が描写されていく。ダイアローグ→モノローグ→ダイアローグの循環的な構造がサラとロバートの父のあいだに横たわる感情と言葉の壁を乗り越える契機として機能する。モノローグを通過したダイアローグには「手話」と「発話」の壁が依然として存在しているが、コミュニケーションの不可能性は不確実性の次元へ移行し、2人の精神が互いに解き放たれることになる。「手話」と「発話」を同一ショットに現前することの不合理さと困難さはこの映画をきわめてアクチュアルなものにしている。

 ロバートの父の行きつけのカフェは、本作の中で重要な場所として幾度かのシーンに使われている。ロバートの火葬後に近親者や近所の人たちがカフェに集まり、(音声による)会話に興じるシーンではサラとロバートの父が初めて出会うターニングポイントのシーンとなっている。前述した、サラが映像を投影しながらモノローグするシーンも含めて、カフェの中にいる何人かの客はサラを除けば、全員が聴者であることを察することはできるであろう。サラとロバートの父が宥和した後の(ロバートの)お別れ会のシーンでは、数多の(10~20人ほどではあるが)ろう者が一堂する。海岸で遺骨を散布するシーンの後には、当然のことのようにカフェのシーンが再度現れる。だが、これまで聴者たちの溜まり場であったカフェの空間が、今度はろう者たちに取って代わることになる。カフェの同一空間におけるコミュニティの逆転が行われたのである。残された映像やサラの夢の中では、不明瞭のままであったロバートの顔がラストになってその全貌を現したのは、ロバートの父が悔恨の思いを吐露したことにたいしてのみならず、ろうコミュニティの空間そのものがロバートの顔をこちら側に向かわせたのである。それと同時にラストのディスプレイに映るロバートは、ホームビデオやサラの夢の中に現れるロバートの非実体的表象をも超越する虚構内虚構としての象徴的表象に到達している。