《 キュビスム展 美の革命 》:国立西洋美術館

 満を持して、国立西洋美術館の「キュビスム展 美の革命」を観に行く。ここでも至極当然のように、セザンヌから始まっている。今年の夏に開催されたアーティゾン美術館の「 ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開」では、《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》(1904-06年頃)の1点のみであったが、「キュビスム展」では、《4人の水浴の女たち》(1877-1878年)、《ポントワーズの橋と堰》(1881年)、《ラム酒の瓶のある静物》(1890年頃)の3点が並列されている。外風景を描いた前2点は規則的な斜めのタッチが画面の大半を支配しているが、ラム酒静物画では、斜めのタッチは消滅し、モチーフの物体の表層的出現に忠実に写実するかのように画面に一つひとつ塗り込められている(瓶の先端や背景の壁は塗り残されている)。だが、写実的なタッチに反してテーブルの上に置かれた果物、瓶、布、そしてテーブル自体までが様々な角度から捉えられている。外風景のモチーフは真正面からの固定視点(そのように見えるだけで、実際はそうじゃないかもしれない)のみで、リズミカルなタッチの幾何学的構成に集中しているが、ラム酒静物画は対象物とそれを見る視線の物理的限界を超えた多角的視点によって平面的秩序からの逸脱を目指している。セザンヌの多角的視点はイリュージョンとは無関係であり、対象との関係に生起する新しい感覚とともに日常感覚の中に潜む不自然さを不意に顕在化させている。このようなセザンヌの絵画の理論と実践から、ブラックとピカソの2人によってキュビスムという絵画表現が生み出されたことは周知のとおりである。だが、本展で面白いのは、先述したセザンヌの絵画3点の向かい側にアフリカやオセアニアの儀式用オブジェが対峙しており、その相対的な関係が後続するブラックとピカソのそれぞれの作品に見事なまでに対照的に連結していることである。ピカソは本展出品の《女性の胸像》(1907年)や《アヴィニョンの娘たち》(1907年)に明らかであるように、キュビスムの発明の最初期からプリミティヴィスムを導入している。シンプルな形態や大胆なデフォルメの表現方法が西洋の伝統的な規範を打ち破るのにうってつけだったことと同時に、西洋側から見たオリエンタリズムとしての文化的観点を作品の内部に抱えてしまうことにもなる。ブラックはプリミティヴィスムを取り入れたピカソの過激さへの応答として《大きな裸婦》(1907年》を描いている。しかし、その間にブラックはセザンヌが制作した地として知られるレスタックに4回滞在している(1906年-1910年)。その時期に描いた作品が4点展示されているのを目の当たりにして、僕は興奮を隠さずにいられなかった。4点のうち、3点はレスタックの風景を描いた作品であるが、家や橋などの建築物と土壌の地面は、赤と黄土色、あるいはその混合色のみに限られた範囲で統一されている一方で、樹木や山、あるいは道や空までが、ほぼ緑と青と黒の3色のみで使い分けたり、混ぜたりしたタッチが重ねられている。暖色系と寒色系を明確に分たれるようにして、セザンヌ的な色彩とタッチで画面を構築的に組織している。単純化した幾何学形態までセザンヌの真似をしているが、静物画の《楽器》(1908年・先述した《ラム酒の瓶のある静物》の静物画的多視点が移植されていることがわかる)を含めてレスタックで描かれた4点の作品には、キュビスムにつながる新しい表現がすでに萌芽されている。むしろ、セザンヌ以上に大胆に形態を簡素化し、幾何学的図式や多角的視点を先鋭化(還元化)している。つまり、「自然を円筒形、球形、円錐形によって扱いなさい」というあまりにも有名なセザンヌの言葉をブラックはセザンヌよりも忠実に実践したのである。このような「セザンヌキュビスム」は後になってピカソにも共有されていくことになる(後追い?)。この時期にブラックとピカソは交流を深めていき、「セザンヌキュビスム」は「分析的キュビスム」に進化し、逆にピカソのプリミティヴィスムはトーンダウンしている。ピンクとグレーによって鉱物の結晶の塊のような魅惑的な様相を描いた《裸婦》(1909年)に、プリミティヴィスムの残像を見つけることは不可能に等しい。1912年頃から、抽象性と平面性への傾向を強めることになる「総合的キュビスム」の段階を迎え、ブラックとピカソの作品は次第に酷似するようになり、2人のキュビスム表現にはほとんど区別をつけることはできなくなる。これはキュビスムの悲劇というよりかは、方法論的な絵画の宿命であり、2人はキュビスムのこれ以上ない限界点まで疾走してきたことの結末でもあると言えるのではないだろうか。ブラックとピカソが創始したキュビスムは、短期間のうちに多くの追随者や支持者(キュビスト)を生み出してきた。レジェ、ドローネー、クプカ、グリス、デュシャン(本展では《チェスをする人たち》(1911年)が出品されているが、デュシャンキュビスムといえば、《階段を降りる裸体No.2》(1912年)等の〈運動する機械〉系の作品群が真っ先に挙げられるだろう)のように、キュビスムの本質への接近を作品の中で実践してきた画家も何人かはいたけれど、ブラックとピカソ以後のキュビスム作品の大半は2人が発明したキュビスム的方法論と形式パターンを借りて、世界中に瞬く間に拡がったバリエーション的展開と大衆化現象に流されてきた側面があったという印象は否めない(諸々の画家や芸術家の多くはキュビスムを一過性の表現として扱ったのだが、創始者の2人も例外ではなかったという意味ではキュビスムそのものに備わっている性質のひとつなのかもしれない)。やはりキュビスムは、ブラックとピカソに始まり、ブラックとピカソで終わった芸術運動であったという認識が、本展を観終わったあとに徐々に沸き起こるのであった。