『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』 シャンタル・アケルマン

 ブリュッセルのアパートの部屋で、美貌を控えめに引き立てる上品さを感じさせる灰色のセーターをその都度に羽織ったり脱いたりする未亡人のジャンヌの姿に、『去年マリエンバートで』でココ・シャネルがデザインした衣装をまとった上流階級の貴婦人のきらびやかな面影はあとかたもなく拭い去られている。だが、デルフィーヌ・セイリグが演じる、タイプの異なる両方の女性人物には、程度の差こそあれ謎めいた雰囲気を醸し出す不透明なたたずまいと、男性にとって都合よく美化あるいは物化される隣人としての女性像が投影されていることの共通性を嗅ぎ取ることはできるかもしれない。アラン・レネはそのような謎めいた女性像の描写への意欲を妄想的に喚起させたが、シャンタル・アケルマンは、抑圧された女性の心情をサスペンスへと導くことのやむに止まれぬ使命感(なかば義務感であるかもしれない)に促されたのである。ジャンヌのミステリアスは観念の世界からではなく現実の世界、そして(母の存在を通した)女性の視線から生まれている。日常空間におかれた主婦の一挙手一投足を定点観測のカメラで持続的に描写することは男性の監督も実践しようと思えばできるかもしれないが、抑圧された女性の潜在的フラストレーション(気付かれることのない精神の暗部)が導き出される人物造形(人物描写)にどこまで耐久しえるかは、無機質ともいえる日常的な動作、ディテール、空間、時間が堆積した3日間あるいは200分の画面を眼前にすればとてつもなく覚束ないことであり、ある種の徒労感と諦念を悟らざるをえなくなるだろう。この映画はアパートのいくつかの室内と行動範囲が限られた買い物先など(3日目は電車に乗って行動範囲が多少拡張されるが)をひたすら往復し、日常的ルーティンを反復する3日間の平凡な日常生活がアケルマンの冷徹とも親密ともいえるようなアンビバレントな凝視によって淡々と描写されている。1日目の序盤に早くも売春のシーンが挿入され、観客にこの映画における最大の秘密があっけなく晒されることになる。最初はジャンヌにとって売春は労働のひとつであるにすぎないかのように描写されているが、やがて精神を狂わせる契機になることは衝撃的なラストを待たずにしても、すでに執拗に反復される日常の中の些細なふるまいから生じる数多の襞に挟まれた歪みの萌芽によって漸次的に明かされてきている。定点観測のカメラも少しずつ位置をずらしながら(日常空間を誇張しない照明やショットつなぎは終始保持されている)、ジャンヌの感情に潜む歪みと乱れの表象の生産を継続している。そのようなカタルシスへのベクトルに流れるリズムには身の毛がよだつ恐怖感がともなっている。紙袋の中に残された、たった1個のジャガイモの存在がこれまでの日常空間を大きく変化させてしまうことのスリリングさはこれまでに味わったことのない類まれな映画体験であった(ジャガイモの皮を剥くシーンは瞬きすることさえもが許されない最高潮の緊張感を孕んでいた)。3人目の客で初めて性行為中のシーンが現れるのだが、仰向けになったジャンヌに覆いかぶさるように重なった客は性交中に発生するはずの身体動作を少しも見せようとしない。静止状態の不自然さがかえって客から懸命に逃れようともがき続けるジャンヌの女性としての弱者的存在あるいは被抑圧的存在のリアリティを際立たせている(女性と男性の、自己と他者のあいだに横たわるオルガスムの不一致や曖昧さの極端な形式化)。映画の中で異化する静止的表象には客の個別性や身体性が映っているのではなく、女性が従属する社会システムの権力性と暴力性が映っているのだ。微塵も動いていない客の不気味な上半身(裸体ではなくランニングシャツの下着姿の滑稽さ)はジャンヌの息子の沈黙する身体とオーバーラップし、惨劇後のジャンヌのいる部屋に息子の「不在」が大きくのしかかってくるのである。