『ロング・ショット 僕と彼女のありえない恋』

 『ロング・ショット 僕と彼女のありえない恋』を観る。個人的には、シャーリーズ・セロンをスクリーンでお目にかかるのは『ヤング≒アダルト』(2011)以来なのだが、誰もが認めざるをえない美女であるにもかかわらず、登場人物の役柄への万能ぶりが再び強烈な印象として現れてくる。『ヤング≒アダルト』ではセロン本人のビューティーな容姿はそのままではあるが、負のオーラを背負ったイタいアラフォー女の堕落ぶりを体当たりに演じ、不細工な男性との絡みシーンまでやってのける。『ロング・ショット』ではキャリア(スーパー)ウーマンの最高峰とも言える国務長官をゴージャスな女性として演じてはいるのだが、時おり見せる滑稽で下品な言動やきわどいシーンが1ミリも迷いのない演技によって発揮されている。アメリカでは美人の類にはいるようなスター女優でもここまでやることはそんなに特別なことではないかもしれない。日本ではそのような「美女なのに捨て身」というタイプに当てはまる女優が思い当たらないなか、僕にとってシャーリーズ・セロンは万能型スター女優の象徴として眩しいほどに映っている。相手役のセス・ローゲンはそんな彼女にうってつけな三枚目のコメディ俳優であり、2人の映画内関係は『ロミオとジュリエット』や『ローマの休日』のような身分違いの恋愛映画に繰り返し描かれてきた男女の格差関係の最新版といってもいいだろう。だが、古典的構造を借用した表層の内面には現代的な感性や私的感覚が複雑に絡んでいて、2人はそういったものをそれぞれの立場を超えて外部へさらけ出している。シャーロットは野蛮的とされる串料理を口にし、ボーイズIIメンに心を奪われるSM嗜好者であり、一方フレッドはファッションに無頓着(多少のセンスはある)でドジなサブカル愛好者、民主党シンパ、クスリ常用者、そして特殊な自慰行為をする者でもある。欲望と偏狂が紙一重になったプライベートな感覚が2人の周りを形成し、周辺の人たちも主人公の2人と同様にプライベートな隠し事を持っているという既成事実が次々と露呈されはじめる。シャーロットと情熱な一夜を過ごした後、フレッドはシャーロットの秘書であり、仕事仲間でもある白人女性と混血系男性の性交を目撃するのだが、途端にその2人が汚らわしいものでもあるかのような態度をとってしまう。また、フレッドの親友が共和党シンパであることをカミングアウトするシーンでは、互いが人種に関係なく信頼し合っていると同時に黒人に対するステレオタイプを無意識に持っていたことでフレッドは親友から非難されてしまう。彼は正義感や誠実さに従って行動しているように描かれているが、周辺の人たちのプライベートに直面することによって正義感の裏に潜在する偏見が明るみに出される描写には、人間の深部にまで届く鋭さがある。だが、本作はもちろんそのような倫理的エッセンスを最大の描写にしてはいない。様々な思惑や利権、利害関係が錯綜する不純な政治空間のなかでアメリカ初の女性大統領への野望を邁進するシャーロットの姿が現実生活に身を置くフレッドより固定観念やありきたりな価値観からずっと自由になっているように見えてしまう、フィクションとしてのあっけらかんさがこの映画を魅力的なものにしている。そのような逆転した新たな表象関係=シャーロットの勇気とフレッドの内省によって新たに結ばれた関係を最後に取り囲むのは、ただのエキストラとしか言いようのないジャーナリストやカメラマンたちである。資本主義のロジックによってスキャンダルを追いかけるマスメディアの人たちではなく、たんに2人の結ばれた愛を祝福しているだけの純粋無垢な光景はラストに訪れる正当なハッピーエンドへと導いているのだ。