『行き止まりの世界に生まれて』

 家庭に居場所がない3人の若者がボードに乗ってロックフォードの寂れた街中を縦横無尽に駆け抜ける、流動性あふれる映像は3人のうちのひとりであるビンがスケーター仲間と一緒に走りながら撮っている。スケートボードが走り出す自由自在な空間が彼らの唯一の居場所となっているが、ボードを失えば、仲間のつながりがあっさりと雲散霧消してしまうような青春のはかなさも同時に孕んでいる。父親になったザックは家族のために瓦工事の仕事をし、皿洗いの仕事を始めたキアーは屈託のない笑顔の裏で自分の街に窮屈さを常に感じ、いつかは街を出たいと呟く。ビンはスケートボードの走るマニアックな空間を中心に撮っていたカメラを、大人になるにつれて現実世界と向き合わざるをえなくなっていくザックとキアーのプライベートな生活にまで向けるようになる。ストーリーが進む中で、ビンも撮る側だけでなく撮られる側にも自らなり、義父から暴力を受けていた過去を持っていることが次第に明かされる(明かしていく)。ビンの母も義父から日常的に暴力を受けつつも離れることはできなかった苦悩を涙ながらに吐露する。ビンが二人の友人のプライベートの内面にまでカメラを回すようになったのは、自分が内包していた家庭内暴力の問題をザックとキアーもそれぞれに直面していたからである。ザックは加害者として、キアーは被害者としての異なる立場が暴力、貧困、人種差別が連鎖するアメリカ社会の底を流れる歪さを浮かび上がらせている。だが、ビンは仲間のあいだに共有する家庭内暴力の問題を解決する糸口をなんとかしてつかもうとするような姿勢を見せることはない。スケートボードを通じて信頼関係を培った仲間の二人に対して、あくまでも昔から連なっている日常的つき合いの延長としての対話を映像に収めているだけだ。ビンが撮りためた12年間の映像を凝縮した本作を観ていると、3人がずっと身近な周辺で一緒に行動しているような錯覚を多少はもたらしているかもしれないが、ドキュメンタリーの体をなした表象の連なりから距離を置いて振り返ってみると、ビンはザックとキアーを別々に撮っているし、12年の間にいくつかのブランクが挟まれている。本作を撮影するにあたって、何人かがいるスケーター仲間のうち、ザックとキアーが映画の被写体に選ばれたというだけのことかもしれない。終盤、ザックとキアーはそれぞれに新たな仲間のうちに入っている。ザックは子供の母親である彼女とは別れ、別の女性と付き合うようになり、キアーは最後に車に乗って街を出ていく。3人と他のスケーター仲間たちはボードを通じて濃密な人間関係を築いてきたが、大人への時間を辿って行くごとにそのつながりは次第に減退していく。だが、ボードとともに持っていたビンのカメラが友人関係、人間関係のシビアなつながりをかろうじて延命し、レンズを通した対話によって友人たちの内奥に閉ざされていた悲惨な過去や葛藤が少しずつ紡ぎ出されてくるのである。キアーが言っていたようにビンのカメラはセラピーの役割を担っており、ささやかな暮らしを隅々まで蝕む様々な問題が錯綜するアメリカ社会へのプラクティスというよりは、一個人の傷づいた精神が解放される有り様がビンの透徹した視線と類まれな才能(主に編集)によって描かれている。スケートボードが路上をどこまでも滑る運動と身体の融合された映像に我々はわずかな希望を見いだすしかないのだ。

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