MU 〈 無 〉

先日、閑静な高級住宅街のなかにひっそりと佇む原美術館へ行く。とても久しぶりだ。ポルトガル現代芸術を代表するアーティストの二人展「 MU 〈 無 〉ー ペドロ コスタ&ルイ シャフェス」を観る。ペドロ コスタはこれまで彼の映画をほぼ全部見ていて好きな映画監督の1人だが、美術館で展示する映像作品を観るのは初めてで、最初どう接すればいいか多少戸惑ってしまった。無類の映画好きの僕は座席に腰を降ろして作品のもつ固有時間に開始から終了まで付き合うことを絶対的な義務としていたし、ペドロ コスタの映画もそうやって鑑賞してきた。一方、現代美術の映像作品には映画を観るという感覚はほとんど皆無であり、最初から現代美術作品として観ている。だが、不思議なことにルイ シャフェスの掴みどころのない彫刻作品とともに見回っていくうちに映像作品を観るという感覚が次第に薄れていき、ペドロ コスタの映像作品に出てくる移民の底辺者たちの生活が手にとれるようなその場にいる錯覚が出てくる。原美術館の建物内部の構造には美術館にありがちな一方向性や公共性というのがあまり感じられない。順路は半ば循環的であり、元邸宅だった建物からくるプライベート的名残のある空間が映像と彫刻の芸術作品という箔を剥がし、ほぼ地球の裏側にある移民の生活をむき出しにする。 ペドロ コスタの映像作品と同ギャラリーのなかに設置されている彫刻作品は暗闇のなかでかろうじて映像の光だけで形状と物質を浮き上がらせている。ルイ シャフェスの実体である作品も貧民街のなかにある物体のひとつとして黒い表層をむき出しにしている。 1階、階段、廊下、2階と回って再び一階のギャラリーへ戻ってみると、最初に見た時のスクリーンでは2人がベッドの上で横たわっていたのだが、今度は1人が起き上がっていて時々重度の咳をしながらテレビを見ている。どうってことはないが、「やっと起きたか」「もう1人はまだ寝ているな」という観客の僕の至極まっとうな反応がまるで2人と同じ居住者であるかのような感覚にとらわれる。劇場映画のために撮ったマテリアルが使われているペドロ コスタの映像インスタレーションを通して、映像への見方がより自由になってきたように感じる。ペドロ コスタの映像は固有時間に合わせて観る鑑賞(映画館)と観客の恣意的判断によるランダムな鑑賞(ギャラリー)のどちらにも適応していて、その差異はあまりない。それは物語性がないからでも、固定ショットの長回しを多用しているからというのでもなく、映像の人物とギャラリーの観客が時空を超えてシンクロするからである。異なる時間と空間のなかにある存在の交流。と同時に富裕者の住んでいた個人邸宅の優雅な空間と貧民街の極限的空間の相対的でありながらも同じ空間で交錯する特殊状況が僕の思考を混迷させる。ジレンマであることが現在の世界を生きることであるとしか他に感じるところはない。