ミヒャエル・ボレマンス:アドバンテージ

こじんまりとした絵画作品群にはどれも同じような謎めいた雰囲気が漂う。人物像が多いが、その多くは顔を下向いている。観る者の視線と交わることはない。思索にふけているのか、それとも無心の状態になっているのか、しばらくのあいだ凝視してもどちらなのかはわからない。視線が交わる人物像の絵画が一点でもあれば、瞬時に謎めいた雰囲気がなくなってしまうような綱渡り的な緊張感も充満している。人物の世代、性別、外観はそれぞれ違ってはいるが、人物像を入れ替えてもそれぞれの絵画にすんなりとはまりそうな感じである。人間と事物の境目をさまようボレマンスの絵画のモチーフは実体のものなのか、非実体のものなのかさえ不透明だ。ギャラリー1にある「One」の女性は幽霊にちがいない。(表面的には透明ではあるが)不透明なイメージは観る者に虚脱の感情をもよおすが、その感情は美術館の外部にいても常時的に起こる。ボレマンスは30代を境にエッチングや写真から絵画へと転向し、近年は絵画と連動する映像も手掛けている。ギャラリー3の「The Bread」は一見絵画あるいは写真と見まごう表面を凝視すると、下半身を不自然に隠された若い女性がわずかながら動いている。失われていく事物の瞬間的なものを押さえていくのが写真の表現であるならば、失われていく世界の記憶をとどめておくのが時間概念を伴う映像(映画)の表現であると言えようか。では絵画の表現とはなんだろうか。絵画と映像を同時に表現媒体として扱うボレマンスの作品を目の当たりにすると、絵画もキャンヴァスに描写していくプロセスが時間概念を包含しているのであり、身体的身振りによって映像と連動しながら記憶を蘇らせている。ボレマンスの映像作品はおそらく無編集であると思うのだが、そのことがボレマンスの絵画における具象イメージと相互作用的に繋がっているのではないだろうか。つまりボレマンスは作為的ではない、ゆるやかではあるが直線的な時間の流れに身をまかせているように見える。