イメージと感性

誰かによって既に見られたもの、誰かによって既に切り取られたものを自ずと受け入れる。現代に生きる人の感覚はそのようにしてある。初めて目にした風景や事物でも以前にどこかで見たことがあるような感じに襲われるときがある。日常的に既視感がつきまとうが、我々はわざわざ戸惑うことはしない。イメージがあふれる現代社会のなかで戸惑うことはナンセンスである(正確には戸惑うことをしないのではなく戸惑うことができない)。実体のないイメージから二次的、三次的と視覚経験を無限に重ねていく。現実的には常に外界の対象物に囲まれているのだけれど、現前性の感覚よりイメージの感覚が優先されていく。

セザンヌの絵画に感動するのは、自身の身体が封印したはずの現前性の感覚が絵画に、しかもイメージを表象する平面作品によって引き出されるからである(対象物の実体性ではなくイメージの非実体性)。自然を対象にして生きた感覚をキャンバスにのせる。キャンバスに絵具をのせることをしなければ、セザンヌともろもろの人間は近似的知覚体験を共有しているだけのことである。だが、セザンヌはモチーフを前にして感性そのものを意識し、感性の深度を試みる。輪郭ではなく色彩をタッチすることで描く者と対象物が交感する空間を形成する。セザンヌの不正確な事物の形態や空間の構成は、観る者にモチーフ(イメージ)との交感を促し、そこにしかない時間が流れる。しかし、セザンヌの絵画を後にすると、再びイメージの感覚が優先されるいつも通りの自身の身体に戻ってしまう。僕は生きた感覚というものが今のところよくわかっていないし、意識(認識)することがうまくできない(セザンヌと同じく絵を描く者として)。頭のなかでは生きた感覚について語彙を並べることはできるかもしれないが、自身のひとつひとつの行動のなかで感覚そのものを手にとって吟味することがなかなかできない。それは実体のないイメージと記号に戯れることに慣れすぎてしまったし、イメージや記号の連続空間から逃れることができない身体になってしまっているからである。僕の場合、映像イメージを対象として描くことはどういうことなのかということを考えざるをえない。自然の対象物を見るとき(セザンヌ)は様々な視線の交わりが発生する。対象物に焦点を当てていくが、見る者の視線は対象物に届いたとたんに対象物のまわりの空間に拡散する。対象物の後ろにも回り抜けていく。事物と事物が描く者の視線(感性)を通して響きあう。しかし、映像イメージは対象が平面なので真正面からのみ向き合うしかなく平行性による反射しか受けることができないのではないか。映画は連続したイメージだけど、平行性の関係は変わらない。感覚の移動性がなく、イメージそのものと向き合うしかない窮屈さがある(イメージの背景を覗くしかない)。だが、僕は日常的にそのような平行的イメージと付き合ってきている。そうしたなかで、フレームのなかで想像するしかないイメージに身体的な感性を持ち込んでみる。映像と絵画のあいだでイメージを知性(観念)でとらえるのではなく感性でとらえてみることで絵画を制作する(これがアクリルから油彩に変更した理由なのかもしれない)。セザンヌの絵画にふれることで自身の絵画制作の仕事を再認識することができたのではないかと思う。