ウィレム・デ・クーニング

ブリヂストン美術館へ初めて行く。目的はウィレム・デ・クーニング展だ。パワーズ夫妻コレクションによる小規模な展示とはいえ、ここまでクーニング作品がまとまった形で展示されるのはこれまで日本国内ではなかったではないだろうか。1960年代の女性像を中心とした作品群であるが、1960年代から1970年代にかけて世界同時的に隆盛したフェミニズムや女性解放運動とタイムリーに出現したときのビビッドが現在でもかすかに感じられる。この僕の浅薄な知識がクーニングの絵画を前にした時に邪魔するのだけれど、一貫して黄色、赤、肌色を中心とした明るい色彩で激しく描かれた女性像ははたして女性賛美以外のなにものでもないのだろうか。会場ではクーニング本人を撮った写真が何点かあるのだが、クーニングの顔にはどこかウディ・アレンの風貌を思わせるところがある。ウディ・アレンの映画も一貫して女性を最上においてあふれんばかりの女性愛を描いている。ふたりにとっての世界は女を中心にして回っている(ウディ・アレンの「地球は女で回ってる」は傑作!)。女性を描くことはふたりの共通問題であるが、女性にたいするベクトルは異なっている。そのベクトルの違いはそのままメディアの違いにつながっている。ウディ・アレンは映画のなかで、時間軸に沿ったストーリーのなかに女性を置き、あるいは男性(男性に限らず同性を含む他人)を接近させることによって女性ならではの心の移ろいをピックアップする(結局男性は女性に振り回されるだけの滑稽な人物になるのがおちである)。キャンバスに激しい筆触と強烈な色彩をなぐりつけるクーニングの女性像のほとんどは裸体である。抽象化のなかで裸体を表象する肌色と赤と黄色の融合するストロークは女性の身体だけがもつ艶かしさが表現されているようにも感じる。キャンバスの上で絵具の物質性が女性の肉体性を直接的に導く。アレンはお洒落な服装をこなす女性の内面を、クーニングは赤裸々な女性の身体の表面を描くのだけれど、どちらの女性像も内部や外部、精神と肉体の境界を軽々と越えた女性そのものを異性の視線から忠実に描いているにすぎない(もちろん肯定的な意味です)。だが、具象と抽象のはざまからおぼろげに現れてくる女性像はアンビバレンスな対象としてある。自由闊達なストロークや明るい色彩からくる恍惚なイメージは女性賛美の思想から生成したかもしれないが、激しいストロークは裏を返せばレイプを思わせるような破壊的イメージがつきまとっている。ウディ・アレンと絡ませて女性像という表象にとらわれすぎてしまったが、絵画というメディアの上では性別の問題のさきに人体という形態問題が必然的に現れてくる。人体のイメージを焦点として具象と抽象のはざまを行き来しているのだが、人体のイメージをぎりぎりのところで成り立たせる何かとして線を引いたり、ストロークの質や運動を拡張縮小したり、配色構成をしたりする。イメージを深化していくというより平面上でイメージを掴んでは離すを繰り返すといった感じである。描く者自身も人体を有する者として存在し続けられるか、存在を消されるか(というより自ら消していく)の絵画的格闘が繰り広げられている。依然として女性の謎は残るけど。
ウィレム・デ・クーニング展はブリヂストン美術館の10室のうちの2室を借りた形で展示されている。第4室のセザンヌの絵があまりにも素晴らしすぎて、向いに置いてある椅子に金縛りにあったかのようにずっと座ってしまった。
http://www.bridgestone-museum.gr.jp/exhibitions/