堀浩哉展「起源」

僕はドローイングを全くしていない。おそらく制作の出発点が映像イメージにあるからだろう。既存のイメージから出発しキャンバスに直接描く。自身の身体から発生する新しいイメージに立ち会うことなく、映像イメージをすでにあるものとして非主体的に扱うところのネガティブな行為(引用)から制作をはじめる。最終的には身体的痕跡を残しながら絵画イメージに転化していくが、やはりそこに現れるのはネガティブな空間(空虚)である。2つのイメージのあいだで非主体と主体が拮抗している。ドローイングをしない僕だが、堀浩哉のドローイングは興味深かった。ドローイングは無の状態から腕の振りによって形やイメージが生まれでてくるという、主体的で一番シンプルな創造のかたちである。しかし、堀浩哉のドローイングは何かを取り払うために絵を描かねばという強迫観念によって描かれているような印象をうける。方法論的とか作家の武器とかいうよりも、こうならざるをえなかったという後進的な感じでさえある。それは、作品制作を始めるときの発展的行為としてのドローイングではなく、美共闘の思想や絵画制度への批判を経たあとに残されたものがドローイングであったということだと思う。歴史と思想と挫折が入り交じったドローイング。線描やデッサンとしてのドローイングでさえ純粋なものではなく、脳と身体から発生する以上描く者の観念によって制限されたものとして表現されざるをえない。それは椹木野衣がカタログに書いているように手癖と手順の表現でしかない。だが、堀浩哉のドローイングは手癖と手順の先にある飛躍→逸脱(椹木野衣)の境地に入っている。成熟した結果とか、センスの良さではなく、絵画にたいするあまたの思考から跳躍した愚直さと無謀さである。社会のどの階層にも、美術の内外にもすべてひらかれているような無防備さと包容力を含有している。手癖と手順が張り付いている描線やストロークはやはり自身の手を通して上書きするしかないという徒労感さえ漂う孤独な作業(”REVOLUTION”の執拗な文字反復もドローイングである)。おこがましいとは思うけれど、僕は堀浩哉の絵画にたいする制作姿勢なら信じられるような気がする。表象と物質、主体と非主体、制度と身体といった問題が複雑化しているけど、堀浩哉の長い美術活動から生まれた作品群を順々にたどっていくと、絵画とはやはりエモーションなのではないかと思う(「ローマで鳥を見た22」の赤いストロークは政治的エモーションを強く感じる)。冒頭に戻るが、僕の絵画は映像にたいするエモーションから始まっている。
http://www.tamabi.ac.jp/museum/exhibition/141018.htm