アンジュ・ミケーレ 「イマジナリウム」

 柔らかなシルバーの支持体に、やはり柔らかな筆使いが軽やかなイメージを浮遊させている。白色の蛍光灯がホワイトスペースの天井や壁全体に反映した真っ白な空間のなかで、シルバーの支持体は背景の壁に溶解されかかっているが、丸の形を筆頭に大胆なストロークによって描かれた様々な形態は半透明な質感を有しつつ、軽やかではあるが、図としての揺るぎない強度を発揮している。円形、四角、三角、菱形、不定形といった各々の形態が密やかに佇んでいる光景は、有機的なものと無機的なものが分け隔てることなく共存しているようでもあり、抽象的ではあるけれど、私たちがいる世界のあるがままの具体的な姿がひとつひとつ見えてくるような気がしてくる。図とシルバーの背景(地)の関係は淡い光のなかに消えかかる、繊細ではかなげなイメージを醸し出しているが、観る者が画面の前に立ったり横切ったりすると、不意に図が明確な存在をもって立ち現われる。シルバーの柔らかな表面に観る者の蜃気楼のような黒味がかった姿が反映し、図自体の形状や輪郭をその度に際立たせている。その有様はひっそりとしていたものが他者の存在によって、止むに止まれずに表れ出てくるようでもある。シルバーの他に和紙を使った作品も2、3点掛けられていたが、画面に反映する要素はないものの、図と和紙の背景の関係は不思議とシルバーのそれと同じ質を感じさせる。絵具を重ねるタッチの筆痕や様相を呈する数多のタブローには、様々なプロセスやアプローチが絡まり、他者の存在や時間が重層的に内在化しているが、アンジュ・ミケーレの描くドローイングのタブローは無の時空間から唐突に出現する、それ以外のものは何もないというような刹那的な状態で他者や外部と触れ合っている。シルバーの地に人影が反映する画面の手前で、観る者に「観る/観られる」の共犯関係あるいは幸福な錯覚を与えはするが、表層の先にある深遠な内面空間にまでは手が届かず、他者を外部者のままとする自己と他者の厳格な関係性に触れているような感覚が発生し、ある種の緊張感を観る者にもたらしている。僕がミケーレの個展に足を運んだのは、実はネットで「聴覚障害という身体と自意識のシェルターに護られた精神を拠り所に」(住吉智恵)の一文を目にしたからである。かくいう僕もろう者であるが、感覚器官のひとつが欠落したまま世界を知覚する身体的条件は共通していると思われる。しかし、ミケーレの絵画を眼前にすると、僕の想像をはるかに超えた孤高の精神がギャラリー空間に充溢しているのを漠然と感じる。同じ身体的条件でも、世界へのアプローチがまるっきり違う印象を受けざるをえない。聴覚をもたない身体的感覚と手話を使うマイノリティとしての社会的存在のあいだを往来する僕の培ってきた自意識(あるいは制作意識)とは別次元のところで、ミケーレの作品世界には強靭で自由な精神が、シルバーの柔らかな光とともにどこまでも澄み渡っている。