『パブリック 図書館の奇跡』

 壁一面ガラス張りの前で裸になって歌を歌い、突然パタリと倒れた男性の裸体は腹回りや脇下に多くの贅肉が付き、背中にタトゥーが彫られている。その人だけが持つ唯一無二の身体性が剥き出しになっている。場面転換時のインサートとして、レファレンスサービスで質問をする利用者たちの顔や上半身を真正面から捉えたフィックスショットが連続するシーンが挿入されているのだが、顔の表情や話すときの仕草(なかには手話で話すろう者も含まれていた)などが一人ひとり違っていることの固有性の自明さがリズミカルなテンポによってクローズアップされている。男性の身体にある「個」の強烈な存在と、レファレンスを探す目的の共有のなかに現れる「個」と「個」の差異が、図書館という公共空間における一出来事の表象として描かれている。公共の場は本来あらゆる「個」へ開かれているのであり、雑多な「個」が階層に分け隔てられることなく誰もが自由に集まれる場所としてある。主人公のスチュアートや同僚たちは図書館に通い詰めるホームレスにたいして迷惑な存在という意識をほとんど持つことなく自然に受け入れている。その一方、公共空間は「みんな」の場所であるがゆえに、行政のトップダウンが強力に行われる場としても機能する。融通が効かないルールに保護され、あるいは変質した「公」に「個」が隷属されざるをえない状況が、新自由主義の台頭によって社会の隅々にまで拡張している。現今の公共図書館は民間による指定管理が進行し、図書館司書の非常勤化が世界でも日本でも顕著になっている。最近の身近な例でいえば、渋谷の宮下公園の再開発によるホームレスの強制排除が記憶に新しい。現在の「公」は市場や権力と結びつき、(選別された)マジョリティ側にベクトルを向けている。社会からはみ出される「個」は貧困と格差のなかで忘れられた無の存在として社会の片隅に追いやられる。公共図書館では「公」の価値と「個」の尊厳がギリギリのところでせめぎ合う、現代においては奇跡ともいえる均衡空間をかろうじて保持しているが、この映画では大寒波の襲来が「公」と「個」の関係の一線を超えてしまい、ホームレスは生きる権利と「個」の存在を世界に示すために結束し、立てこもりを強行するストーリーとして描かれている。はからずも立てこもりの中心人物になってしまった図書館職員のスチュアートは初めから主体的に行動したわけではなく、戸惑いながらも気がつけばホームレスの側に立っている。弱者に寄り添う優しさを持ちつつも「公」側の立場を挟持していたが、市長選挙に出馬予定の検察官やセンセーショナルに扱おうとするメディアの企みによって逮捕歴のあるスチュアートの隠れていた過去が世間に晒されてしまったことで、スチュアートの「個」である唯一無二の存在と出自が映画のターニングポイントとなり、事態は急転回し、ストーリーの展開は一気に加速し始める。文学によって蘇った(救われた)スチュアートの「個」は「公」の場で社会に恩返しをすることになり、ホームレスの立てこもりという想定外のハプニングがさらにその「個」を輝かせることになったのだ。図書館内で歌を歌った男性の孤立した単一の裸体はラストの様々な「個」が集結した驚愕の光景へと結実することになる。