マックス, モン・アムール

外交官(ピーター)の住む高級感漂う部屋に一匹のチンパンジー(マックス)がいるという滑稽な光景。言葉をもたない類人猿のまわりで人間たちは言葉を飛び交わすのだが、チンパンジーの沈黙と並列に置かれたあまたの言葉は何を言っても無意味でしかないかのように振る舞われてしまっている。それでも、登場人物やこの映画を見ている者はその言葉によって会話やストーリーを理解したり味わったりするように、人間は言葉ありきの生活を営むしか他に方法はない。人間の生活に一匹のチンパンジーが紛れ込むことによって異化現象が発生し、滑稽の対象になっているのはむしろ人間のほうなのである。だが、ピーターの妻(マーガレット)は言葉をこえた恋愛感情をすでにマックスと共有している。感情の共有から性の共有へと話題が進展し、チンパンジーと人間は性を交わすことはできるのかというスキャンダラスなテーマがこの映画の中心へと移行していくのだが、肉体の交わりまでは描写せず、言葉の範囲でかろうじて留めている。肉体的ピークは娼婦とマックスのシーンに見られるのだが、コメディ調に展開されていてスキャンダラスな緊張感はあまり出てこない(娼婦曰く「リンゴで誘惑するなんて初めてのことだわ」)。 言葉は無意味であったり理性の象徴になったりするが、何よりも言葉は複雑でとらえどころがない漠然とした代物なのである。 複雑性をもった言葉が人間を世界のなかで不確実な存在にしている。冒頭でピーターがマーガレットとマックスが逢い引きするアパートメントに初めて入った時、マーガレットはベッドの上で裸体をシーツで覆っている。実際の性生活はあったという設定に見られても不思議ではないのだが、マーガレットはマックスとの性生活については最後まで映画の内外の誰彼にも明かさない。二人(一人と一匹?)のあいだに性生活はあったのか、なかったのかという事実性ではなく、スキャンダラスやタブーが人間社会のなかで顕在化されたときに生じる人間関係の変化こそこの映画で撮るべきテーマなのである(大島の日本での性を扱った映画は重厚な感じがするが、外国で撮ったこの映画は喜劇に近い)。性をめぐる話し合いはユーモラスな言動のようにみえるが、ひとつひとつの言葉をとりあげてみれば、シリアスかつショッキングな様相にもとれる。ヨーロッパはキリスト社会であり厳格な階級社会でもあるけれど、性に対しては日本よりずっとおおらかであるので、大島はこの映画を日本ではなくフランスで撮るべくして撮ったのだろう。この映画はマーガレットとマックスの幸福な再会を嫉妬心が消えたピーターが微笑ましく見守ることによって最後に大円団を迎えることになるのだが、最後の最後にマーガレットはマックスを撃ち殺すことを想像したとピーターに告白する。人間は言葉だけではなく謎(不可解)をもった動物でもある(マーガレット役のシャーロット・ランプリングの視線の不動性には目を見張るものがある)。
https://www.youtube.com/watch?v=PIZwDaQJNqg