サイ トゥオンブリー

文字そのものではなく、文字が連なって意味が発生しかけるような空間が絵を描くことを目的とした紙の上に繰り広げられたとき(あるいは美術館で展示されたとき)、現代美術に慣れているつもりでも、やはり僕の頭のなかにある視覚野に多少の混乱が生じてしまう。描かれた文字が一連の言葉になる場面を絵画の支持体で目の当たりにするとき、他の視覚的イメージとともに1ミリたりとも動かずにその場に現れる非運動的な意味の集積にどう接すればいいのか戸惑ってしまう。文字は言語性と視覚性の両方をもつ言葉だと思うのだが、絵画イメージのなかで文字が戯れるところを見るとき、観念というよりも知覚のほうが攪乱されているという感じがする(脳神経の攪乱?)。だけど、一連の言葉なる文字の集積も絵画(視覚)的イメージも突き詰めればどっちも表象でしかないのだから、キャンヴァスであれ、広告的な媒体であれ、書物であれ、ところかまわずに文字は神出鬼没に出現する。トゥオンブリーの文字は意味が次第に消えかかっていく、あるいは逆におぼろげに意味が浮き上がっていくといった、文字と意味のはざまをゆらゆらさまよっているようなイメージがある。それは、絵画とか文字(文学)とかの区別を越えた、手で描く(書く)身体的所作そのものを具現化することでもあるのだが、その身体には言葉がどこまでもまとい付くという人間の理不尽さを絵画において表現しようともしている。非欧米圏の人間である僕にとっては、アメリカやイタリアで作家活動をしてきたトゥオンブリーの描く文字が日本語ではないので(当たり前だけど)、僕の身体が「読む」という行為を自動的に遠ざけてしまう(文字の意味が僕の頭のなかにするりと侵入してしまうことはあるけど)。僕の場合は、線同士の絡まり、線と記号の関係などの形態的空間、文字から線に移行するときの意味が消えかかっていくベクトルのほうに興味をもってしまう(実際には最初から線でしかないのだが)。線の作品は激情性がほとばしるイメージが強いが、文字以外の記号、数字が描かれた作品や紙のうえに紙を貼るコラージュ作品は脱力的な感じがする。線は自ら動いていく能動的な運動性が見られるが、記号や数字、正体不明な何かはてんでんばらばらに置かれていて、周りからの働きかけを待っているような受動性があり、他のものと関係を結べずにいると次第に消滅してしまうか弱い存在の感覚がある。記号や数字などをしばらく眺めていると、虚空状態におちいるとともに見る者の対象認識があやふやになり(これをゲシュタルト崩壊というのかはわからないけど)一時的に不安な気にもさせられたりする。トゥオンブリーの手先から発散する激情と脱力の両義性は、言葉を持つ人間の想像力と感性が世界と対峙したときに自然な形で表れる振幅の大きさである。
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