クリスチャン・マークレー トランスレーティング[翻訳する]:東京都現代美術館

 東京都現代美術館で「クリスチャン・マークレー トランスレーティング[翻訳する]」展を観る。僕は耳が聞こえないのだが、日常生活の中で常に音の存在を目の当たりにしている。聴覚的にはサイレントな状態ではあるが、視覚的にはノイジーな状態としてある。僕の二つの眼に開かれる視野には音のイメージがうじゃうじゃ飛び交っている。音の存在を知らないでいるというよりは、知らないふりをしているという感覚のほうが大きいのかもしれないが、ある時立ち止まって、少し意識を向ければ音が可視的なものとして現れてくる。音そのものは非実体なものだけど、音を聴くことができないがゆえ、非実体的でも実体的でもあるような、得体のしれない何かがそこら辺に「見えるもの」としてあるという感覚。僕の身体は補聴器をつけてしまった身体なので、音の輪郭が定まらないノイズとしての状態に接している感覚(触覚?)も所有しているのだけれど、やはり音そのものについては(僕にとって)永遠に分かり合えない存在という感覚が身体中に染み込んでいる。今も多少なり持続してはいるが、若かった頃は音楽への憧憬がとても大きかった。友人に誘われてライブやコンサートに行ったりしたことはあるが、僕が音楽に接する方法のほとんどは視覚を通してだった。ミュージックビデオや音楽映画を自ら積極的に観まくったり、好きなミュージシャンのポスターを部屋に貼ったり、彼らの写真が多く載っている雑誌を眺めたりもしていた。(CDジャケットがかっこいいというだけでCDを買ってしまったことも度々ある)そのような若かりし頃の音楽体験というのは、音を聴くことではなく視覚的に表れる音楽の情報や形式と戯れることであった。つまり、音としての音楽ではなく、イメージとしての音楽を存分に楽しんでいた。どんな音がするのだろうかというような想像の行為すらあまりしてこなかった気がする。音への真摯な希求なんかできるわけがないという、感覚器官のひとつが欠落した自分の身体に対する諦念を通り越した受容と音楽への無頓着のなかで、音楽の視覚的表象ばかりむさぼり食っていた。本展覧会を観たことで、例外的なことに勤しんでいたあの頃の僕がフラッシュバック的に蘇り、またそのような僕の特殊な音楽への付き合いがようやく今頃になって誰かに(マークレー)に認められるという類まれな経験を味わうことができたのである。

 映像から絵画までどの作品も面白かったが、絵を描く身(現在は休筆中)としては、《アブストラクト・ミュージック》の作品群にとても興味をそそられた。《アブストラクト・ミュージック》は一見ただの抽象絵画に見えるが、実はレコードジャケットに印刷された有名無名の画家たちの抽象絵画の様式をマークレーが忠実になぞった筆触の模様である。抽象絵画は音の抽象的な性質への憧れと大きく関わっていると本展のガイドには書いてある。例えば、カンディンスキーの絵には、音楽の抽象性による翻訳作業がキャンバス上で行われている。カンディンスキーが音楽を聴きながら絵を描いたかどうかは僕にはわからないが、少なくとも耳の聞こえる者(聴者)が視覚的媒体の上で抽象的な表現をするときには、潜在的にそれぞれの身体が持つ音への記憶を拠り所にしながら作品を作っている。ならば、音への記憶がなく、音という概念そのものを想像するしかない、ろう者の僕にとっての抽象性とはなんだろうか?そのような絵画と身体の関係について色々考えさせられるのだが、レコードジャケットの正方形という音楽の形式をともなった支持体に描かれた即物的イメージを生み出す行為のかっこよさに真っ先にやられたことのほうが僕にとっては大きい。マークレー自身も他の画家が描いた抽象絵画をただなぞるという匿名性によってメタ的に音楽と抽象絵画の関係性にアプローチしている。結果的にそれがかっこいい作品になったのであるけれど。パネルに絵具をぶっつけた時の音を示すマンガのオノマトペをその同じパネルの上に重ねた《アクションズ》シリーズの絵画作品も興味深い。マークレーだけが聞いた音をマンガのオノマトペによって観客に共有させることの不条理さが可笑しく感じると同時に、観客として音のイメージを視覚体験することは対等な体験にもなりえるんだと少し変な気分がしたのも事実である。会場の最後には、ろう者のパフォーマーによる身体表現の映像作品《ミクスト・レビューズ(ジャパニーズ)》が展示されている。一番最初のスペースの壁に展示された文字列の作品《ミクスト・レビューズ》を手話から発した身体表現を用いて翻訳したサイレントの映像作品である。マークレーの作品としては、かなり異色な作品との印象を受ける。冒頭の《ミクスト・レビューズ》の文章を翻訳する際、多くのものを失うかわりに、音楽そのものの普遍性を再浮上することにもなるというマークレーの意図(ガイドによる)の外部にろう者パフォーマーの身体表現によるエモーショナルな表象性が不可避的に現れている。マークレーの作品を形成するサンプリング、翻訳、変換といった行為には複数の領域や空間を横断するときの軽やかさとユーモア、イメージと物質へのストレートさがともなっているのだが、《ミクスト・レビューズ(ジャパニーズ)》には内容を引きずるような表現性に重厚さを感じる。手話を知らない者と知っている者の感受性の違いの問題なのかは、まだ断定することはできないが、その断絶性も含めて「見ること」への思考はますます広がっていく。

https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/christian-marclay/