『夜光雲』 大山エンリコイサム

 所用のあった川崎から南武線で引き返さずに京浜東北線で横浜に南下移動し、山下公園の入口の向かい側に建つ神奈川県民ホールにまで足を運んだその目的は、大山エンリコイサムの個展『夜光雲』を観るためであった。地下1階からの順路になっている、最初の同形の2つに分かれた展示スペースでは、《レタースケープ》#1、#2がそれぞれの場所で絵巻物の体をなした細長い形に合わせて作られたであろう、腰位置の高さをもった台座に置かれている。文字体の差異は日本語と非日本語の異言語の間だけでなく、草書らしき文字も所々に出現しているように現在と過去の間からも可視化され、手紙の断片がパッチワークされた凸凹な平面に多元的な表象と時空間が網目状に交錯している。下方に向けていた視線を常態に戻し、歩を進めた先には奥行きのあるスペースの一方側だけの壁に《FFIGURATI》シリーズの作品が均等間隔の横一列に7点並んでいる。大山が以前から多方向に展開するモチーフの起点となる〈クイックターン・ストラクチャー〉がミニマルベースに抑制された、複雑化する手前の最小限に近い形態が縦長の白いキャンヴァスに一つひとつピックアップされている。神奈川県民ホールに今まで行ったことのなかった僕は(通り過ぎたことは何回かある)、建物外の広々とした段差を上がりメインの正面玄関から建物内に入ったので、2階にあるエントランスホールを横断し、1階に通ずる階段を下ってギャラリーにたどるという遠回りをするはめになったのだが、受付の後、さらに地下1階へ階段を下り左に曲がってようやく最初の展示スペースにたどり着いた。建物外の段差も関内駅から向かってきたので、建物を迂回するように右に曲がりながら上がり、正面玄関は手前の障壁が左折を促し、建物内の2階から1階、1階から地下へのそれぞれの階段で何度か曲がってきた、その進行方向の変化を経験した感覚の余韻が《FFIGURATI》のクイックターンの表現を目の当たりにした時に再び覚醒し、方向の変化をそのたびに受けてきた身体的感覚がシンクロするように具現化してきたような気がする。多方向に視線が定まらない絵図のはずなのにシャープな輪郭のせいで冴えた視覚経験が生ずる状況は、上下左右に方向感覚が撹乱させられつつも目的場所に問題なくたどり着くという、受動的運動と能動的運動が同時に上手く行われた当日の身体経験とオーバーラップしている。四隅にあるガラス張りの空間を挟んで、再び奥行きのある別のスペースに入ると黒い板状のものが天井すれすれまで積み上げられた巨大なオブジェが3点、眼前にヌッと現れてくるのだが、不思議と威圧感や重厚感はあまり感じられない。軽やかな発泡スチロールの材質感が黒に塗装された表層のイニシアティブを掌握したまま存在している。同じ平面体を少しずつずらして積み重ねたぎざぎざの形は静態の内に運動イメージを醸成しているが、同じオブジェの反対側ではぎざぎざの面ををスパッと切断した表層が運動イメージを剥ぎ取られた静態と物体そのものを露出している。次に向かった場所は個展会場の中で最大の面積を有する正方形のスペース(室内階段のある、2つの階が一体化した空間)であり、暗闇の中にスポットライトを当てられた平面作品が6点、それぞれ異なる方法で展示されている。個展タイトルの『夜光雲』はここから来ているのだろう。ここの作品群も、先ほどのクイックターンの作品と同じタイトル《FFIGURATI》であり、シリーズの作品番号の続きが記されているが、作品の印象はほとんど異なっており、様々な幅をもった黒い線が曲線を即興的に幾層に重ねている。アクリル性エアロゾル塗料の他に墨や黒鉛を使って描かれたその画面には液体が垂れたままになっていたり、黒の濃淡が斑とともに浮かび上がる混沌とした様相には、デザインから絵画へと移行する過程を見せられているようでもある。そのような作品にも刻まれている〈クイックターン・ストラクチャー〉はグラフィティの文字から発展させているとのことだが、文字は線を引き、いくつかの線を組み合わせることでひとつの形になる。グラフィティは線がたんなる線にとどまらずにブロック体などのフォントのように面を多用し、二次元から三次元へと表現の幅をさらに広げるのだが、線主体であることには変わりない。つまり、線を置くことによって面が生まれ、後から色彩が入るという順序がベースにある。しかしながら、暗闇の中に浮上する作品に描かれた、斑、滲み、垂れ、ぼかしなどノイズ的なものが混ざった線の集合体は、形象と地が融合する抽象的地平から現れ出る線、デザインの置かれた線ではなく絵画としての現れ出る線として描かれているように感じる。それは視覚的でもあれば、触覚的でもあるような根源的な感覚なのかもしれない。

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