20年ぶりの油彩

アクリル絵具から油絵具に変えた。約20年ぶりに油絵具を使ったのだが、匂いが少なくなっているのには驚いた。制作空間と居空間を一緒にしている僕にとってはありがたい。実際に使ってみるとアクリル絵具の時にはあまり感じられなかった絵具の物質性がカンヴァスにのせられるたびに身体に響いてくる。描き始めの時は絵具に揮発性油を混ぜて薄くさらっと塗るのだが、そのときでも筆の痕跡がくっきりと出現する。なにしろ20年ぶりなのでタッチが残る様相を目の前にしてとても新鮮な感じがしたし、絵を描く原点に戻ったような気がする。絵画制作の中盤では絵具の盛りを上げていくので、タッチを重ねれば重ねるほどマチエールの度合いが高くなっていく。今はまだ実験の段階だが、イメージ的にはルシアン・フロイドの作品のような表層に近づいてみたいと思っている。フロイドは筆のみで絵具を次から次へと重ねていき、乾いた絵具とまだ乾いていない絵具がきめ細かくぶつかっていくので、マチエールのザラザラ感が無際限に画面を覆っている。そのざらついた表層は裸体の皮膚の平滑さを度外視し肉塊のおぞましさのみを呈示する。僕は実体を前にして裸体や人物を描いているわけではなく、映像イメージを重層した抽象的イメージを非実体的に描いている。今までアクリル絵具を使ってきたのは、映像イメージからくる非実体的でフラットな感覚を絵画イメージに置き換えてきたからであり、イメージそのものを優先してきたためである。何度も塗り重ねても厚みが表現できず、筆致も残らない非可塑性(マチエールをつくるメディウムがあるけど、直接的ではない)というアクリル絵具の特性を利用したのである。しかし、去年の展示を機に僕の絵画作品にたいする心境に変化が生じる。四隅に制限されたカンヴァスのなかに出現する映像イメージを重ねた重層的イメージは、フラットあるいは拡散的なイメージというよりも垂直的に座標を重ねるという意味で内包的イメージのほうが強いのではないかと感じるようになってきた。制限的、不自由、無時間的な絵画イメージに運動イメージが出現するとすれば、拡張、発散、進行といった類いではなく、一箇所でうごめくというような、あるいは瞬時瞬時が重なっていくというような内包的運動イメージが発生するのではないかと思う。描く者の身体性と密接につながる筆の痕跡、絵具を盛り上げたり抉ったりする可塑性、絵具の練り調子などといった油絵具の特性は、イメージを完成し外部へ放つというのではなく、描く者の身振りと感覚の交錯というドメスティックな過程を通して、カンヴァスに描かれる内包的イメージの強度を生成することができるように思えたので、アクリル絵具から油絵具への変換を受け入れることにした(能動的というより受動的な感覚)。とはいえ内包的なイメージも一応筆を置いたあとには外部世界へと流動し変化していくだろう。作品も僕自身の制作もこの先のことはどこへ転ぶかはまったくもってわからない。