現在絵画製作中で終盤の段階に入っているのだが、キャンヴァスに絵具をのせ始めたときにあった油絵具の物質性との戯れは一段落し、作品全体を眺めながら描くことが多くなってきた。四角の枠をもつキャンヴァスに絵具をどんな形でのせようとも、当然のように二次元のイメージが立ち現れてしまう。いや、最初からイメージは存在している。作者はキャンヴァスのまえで物質性をうたっても、物自体がもうすでにイメージでしかないのだから、イメージの絶対性に為すすべはない。イメージをキャンヴァスの面に投射するとき油絵具の物質性に直面するが、瞬時にイメージは物質を包含してしまいイメージは作者自身に跳ね返る。イメージ曰く「最初にイメージをつくったのはお前なんだろ?さっさとイメージの創造を進めてくれ!」と。
先日国立新美術館で「中村一美展」を観る。アメリカ抽象表現主義を意識しながら描かれてきた中村の作品は、現在の絵画の潮流からは遠く離れた地点にあるが逆に新鮮に映る。狭い日本のどこで描くんだよと突っ込みたくなるくらい、巨大なサイズの作品が会場を埋め尽くす。中村の作品は大胆な筆致による激高的なマチエールが画面を覆う作品と「斜行グリッド」連作のようなパターン性を入れたフラットな画面(ステイニングの作品を含む)の作品の二系統に大雑把に分けられるかもしれない。だが巨大な画面の前に立つと、物質性をあらわにした凸凹な面とデザイン的なフラット面の差異は消失してしまう。画面内の平面的イメージが枠をはみ出し、空間的イメージへと拡張する。二次元と三次元の境界が消滅する事象を作家自ら実現させたのが、会場出口から2番目のギャラリー全体を覆いつくした斜行グリッドによるウォール・ペインティングである。中村の作品は巨大な作品でなければならなかったのだと思う。それは同じ土俵にたってアメリカ抽象表現主義を超えるためではなく、絵画空間から世界情勢にまでつながる社会空間へ飛躍するための土台として巨大なサイズが必要だったのではないか(東洋的記号を導入しながら)。空間としての絵画を表現する中村の作品は、絵画表層のマチエールにある物質性ではなく、枠と面という平面サイズ的な物質性と直面している。現在の僕にとっての絵画的物質とは二次元内で戯れる絵具のマチエールであるが、中村にとっての絵画的物質とは巨大なキャンヴァス(サイズの大きさ)である。キャンヴァスとは枠によって限界づけられた面であり、僕の絵画制作はイメージを切り取る感覚をともなうのだが、中村の絵画はイメージを拡散するという感覚をもとにして創造されているように感じる。