「サーキュレーション ― 日付、場所、行為」

東京国立近代美術館の2階にあるギャラリー4の展示はわりと好きだ。1階のメイン企画展が霞むくらいの刺激をくれる時がある。現在の展示は「事物/1970年代の日本の写真と美術を考えるキーワード」。パリ青年ビエンナーレに出品した中平卓馬の「サーキュレーション ― 日付、場所、行為」の一部(10点による再構成)が展示されているのだが、複数のプリントがそれぞれ額縁に入れられ、きちんとした構図にレイアウトされた展示風景は当時の文脈を離れてファッショナブルなイメージを醸し出している。レンズの向こうにおびただしく立ち現れる現実のディテールを撮影し、撮影者自身も包みながら刻一刻とたくさんのプリントを提示していた当時の行為は、瞬時的な暴力をもって、偶然そのときその場に居合わせたこと自体による、その場限りの出来事の具現化に徹底していた。それはレンズを通した撮影者と事物の具体的現実に即した視線の関係である。現実のなかで現像と展示の繰り返しによって、ひとつの像が固定されてしまうことを避けようとしていた。だが、そのフィルムに定着したイメージ=像は時を経たあと、写真の記録性を越えて記憶の美化をともなった別のイメージ=表象に向かわざるをえなくなっていく。得体のしれないイメージの本性を感得した中平は写真を撮りながら理論の武装化をしなければならなかったのであり、現在の再構成された作品には、別のイメージに成り果てても中平の思考の痕跡は確実に残されている。イメージは像から表象に移り変わっても、対象と撮影者の視線を交わす関係までは失われていない。中平は表現者としての個的(内的)イメージを拒否し、対象を記録するという認識によって現実の世界の一部になっていこうとする。だが、対象を記録するという行為においても撮影者の無意識の領域が蜃気楼のように立ち現れ、カメラアングルの決定、被写体の選択、モノクロームの手作業に表現者としての行為が反映されてしまうことのまぎれもない事実にぶつかる。カメラを手に持った瞬間、表現者という存在からは逃れられなくなる。モノクロームの手作業を捨て、カラー写真へ転換することによって、撮影者と事物の具体的現実(クリアな像)の切り取り作業を再び始めることになる。「サーキュレーション ― 日付、場所、行為」の再プリントが展示されている現在、カラー写真が当然のように撮られているが、表現者は対象と自身とのあいだをますますあいまいにしていくかのようだ。
http://www.momat.go.jp/am/exhibition/things2015/