《風景論以後|After the Landscape Theory》:東京都写真美術館

 東京都写真美術館の地下1階で《風景論以後》の展覧会が催されているのだが、展覧会としての「ハレ」というよりかは、何の変哲もない日常的な風景としての「ケ」がひっそりと展示されている印象があり、そういう意味では地下の空間がふさわしいように感じられもしないではない。もちろん何の変哲もない日常的な風景とは均質化・都市化された風景であり、その背後には何か得体の知れないとてつもない巨大なものが立ちはだかっている。だが、そのような「見えるものと見えないもの」との可視/不可視の関係とは別に、日常的風景を切り取った写真や映像の画面に映る唯物的イメージとしての風景そのものの表層に触れるだけでも、観る者の感性は大いに揺さぶられる。本展の最初のスペース(入口と出口を兼ねた円観的スペースでもあった)で、早くもその感性的動揺が引き起こされてくる。広島平和記念公園とその周辺を撮ったという笹岡啓子の写真は、予備知識なしに対峙することになったのだが、どこにでもある都市の一風景とそのなかに映る匿名的人物の何やら不穏な関係を思わせつつも、唯物的(表層的)な都市イメージが観る者の視線を停滞させない現代的なドライ感覚をそれぞれの画面に定着しているようでもある。だが、進展していく視線が何かに引っ張られているような感覚が同時に生起し、そのような感覚の源泉が、唯一赤い画面になっている写真にあることを認識した瞬間、広島市の都市風景でもあり、広島市以外の都市風景でもあるのだというニュートラルな感触が僕の頭のなかを突き抜けたような気がしたのである。だが、そのニュートラルな感触を誘き出したのも「広島」であるという揺るぎない事実性から観る者は逃れることはできない。撮られた対象の具現性と対象をめぐる観念性が交錯するなかで浮上するひとつの都市風景。モンタージュの一片をかたどる歴史と記憶の赤いディテールは、特定の場所の過去と現在のあいだにある距離感の不確かさを示しているが、そのような表層にある赤い痕跡と観る者との邂逅でさえ、プリントのつるりとした表層性(物質としての平面性)に還元され、イメージの無限性に委ねられてしまうことの不可避性、あるいは理不尽さをも内包している(8月6日の広島市街を覆いつくす「赤」の悲劇的イメージと広島カープアイデンティティーカラーである「赤」の横すべり)。

 このように本展は笹岡の2010~2020年代の継続した写真から始まり、3章と最終章の1970年代前後の風景論につながっていくことになる、政治性をおびたドキュメンタリー映画やフィクション映画(のアーカイブ)にまで遡っている。『東京战争戦後秘話』(大島渚・1970)と『ゆけゆけ二度目の処女』(若松孝二・1969)の若い男性と女性を包み込む都市風景や『略称・連続射殺魔』(足立正生松田政男他4名・1969)の永田則夫死刑囚が目にしたであろう日本列島を横断する数々の風景と現在の風景とでは何もかもが大きく変化しているが、風景と人物の関係性そのものは過去も現在もまぎれもなく画面に直裁的に映り(永山則夫は見えない存在の対象として)、その戯れが唯物的にも観念的にも拡張していく様相は変わりない。政治性の上に立つ風景の表層には国家と資本の権力を暗示する見えないフイルターがかかっているという、現実的でもあり幻想的でもあるような「想像力」自体に寄りかかってもいるが、1970年代の風景にはかろうじて見えていた貧困と格差が2000年代以降の風景にはほとんど不可視の領域に入ってしまっているような気がする。無味乾燥と化した現在の風景は見えないものの不気味さでさえ蒸発してしまったようでもある。中平卓馬は〈だから今その来たるべき変身のために、ぼくは全てをまさしくぼくに敵対する「風景」としてみつづける。そしてぼくは待つ、次は火だ!〉と発言しているが、現代の人間にはそのような挑発が不可能となりかかっているのかもしれないと考えるのは早計だろうか。ところで、崟利子の映像作品にはヘッドホンが用意されていて、スタッフからも「どうぞ」みたいなことを言われたので、僕は「耳が聞こえません」の身振りを示して遠慮した。そういえば、本展の作品は写真と映像が半々の感じだったが、映像に映る風景は必然的に音声がついているし、生の風景も様々な音が紛れ込んでいる事実にあらためて気付かされる。当たり前すぎてこう言うのも変な感じがしないわけではないのだが、むしろ逆にろう者である僕は、映像をサイレントのまま普通に受け取っている。音声の有無で、風景あるいは映像から受ける印象は異なってくるのかそれとも異ならないのかは、やはり気になることではある。本展ではやはり映像作品より、笹岡啓子、清野賀子、中平卓馬の写真作品に集中していたこともその表れといえるのかもしれない(遠藤麻衣子の映画を除いて、1970年前後の5本の映画は以前に観たということもあるが)。音のある風景とは写真には映りえない過剰なる風景であり、(聞こえない僕にとって)及ぶべくもない異様な風景となっているのだろうか。それとも、物質的な差異を無効化しえるような同質の風景として互いに存在しているのだろうか。ろう者と写真と映像をめぐる関係について、いつか論考できればと思う(論考する力があればいいのだが)。