松本竣介 − 街歩きの時間 –

 国道122号線を通り、交差点を右折して渡良瀬川に架かる錦桜橋に向かう時、急峻な山々に囲まれた桐生市の街全体がパノラマ風景のごとくフロントガラス越しに出現する。桐生市特有の風光明媚な地形は何回来ても素晴らしい。山の麓にある桐生市の大川美術館では「松本竣介 - 街歩きの時間 -」展が現在開催されている。昨年から4つのテーマで松本竣介展が開催されていて、〈街歩きの時間〉は最後のテーマとなっている。大川美術館は松本竣介コレクションとして名が知られており、多くの松本竣介作品を収蔵しているが、今回の展覧会では、東京国立近代美術館岩手県立美術館宮城県美術館といった他美術館から貸与した作品が数点あって、かなりの見応えがあった(東京国立近代美術館の所蔵作品だけがなぜか透明アクリル板に保護されていて、国立の権威というものを見せつけられた感じでもあるのだが)。大小の油彩やデッサンの作品群とともに『TATEMONO』と印された手製スケッチ帖が4冊紹介されている。松本は街を歩きながらスケッチする行為を制作プロセスのなかで重要な作業として捉え、紙に鉛筆やコンテで描かれた一点物としてのデッサン作品と地続きのように繋がっている。気に入った風景や対象を手早く描きとめたスケッチの構図はデッサン作品や油彩作品の構図とほぼ変わらずにそのまま使われている。都会のさまざまな建物や土木に焦点をあてた風景画には、スケッチの段階でタブロー作品に描かれる最終的イメージが決定されていたのである。その場で切り取った不動の構図に、ぼかしによる白黒のグラデーションや透明な絵の具を重ねるグレーズ描法などによって陰影の富んだ描写を展開している。松本の風景画には、松本自身の固有の視覚によって獲得した造形感覚に当時の戦前から戦中にかけての厳しい社会情況下に漂う不穏な空気が被さるようでありながらも、時代精神を突き抜ける純粋な絵画構造が横たわっているように感じる。今回の展覧会では、松本が1930年代末ごろに撮影したと推察される写真が展示されている。一時期、スケッチがわりに街風景を撮った写真には人物がいなく(駅のホームの写真はさすがに何人かの人物が写っているが、後ろ向きの人物がほとんどで人物の存在感が希薄である)、水平と垂直の構図だけが一際目に付く。線路や建物などが交錯する都市の形態が前景化した都会風景のきわめてオーソドックスな構図そのままであり、松本はその形態的シンプルさに造形的魅力を感じながら描いていたのだろうと思われる。松本の風景画は正面から対象に向かうファサード的な構図のベクトルがあり、スケッチより写真のほうがその特徴をかなり捉えている。実際、松本の風景画には人物はほとんど描かれていないことのほうが多い。風景の中にシルエット的人物が1人か2人控えめに描かれている作品もあるが、その人影はよりいっそう都会の寂寥感、不在のイメージを喚起させるのである。展示された写真の中に一点だけ角度をかなり斜めにして撮影した街の写真があるのだが、その斜めの構図は建物に焦点をあてた無人的な風景画より、松本の代表的作品とも言われている《街》(1938年)のような都会の群衆と街並みを構成した俯瞰的な作品に近いイメージを有している。松本は聴覚を失った後に岩手から上京している。東京の風景は都会の雑踏がもつ運動的な事象、建物や土木にある様々な形態や造形的ディテールが視覚的に溢れ出す魅惑な風景として松本の眼に映っていたのかもしれないが、かつて音を聞いていたときの記憶が都市の断片にひとつひとつ結びつき、松本のなかにある音的心像が引き出された場所でもあったのかもしれない。都会風景への深い視線は、結局のところ人間性への関心に通底しているのである(『人間風景』)。