『パリの恋人たち』を鑑賞する。東京国際映画祭(ワールド・フォーカス部門)にて上映された時の邦題タイトルは『ある誠実な男』だったらしいが、小っ恥ずかしいタイトルになっているのは、「パリ」と「恋人」の文字を組み合わせれば、ある一定の観客数を見込めるとの目論みがあってのことだとおおかた想像できるけれど、パリと恋愛にロマンティックな幻想を抱かせること自体、そろそろ限界がきているんじゃないかとも思っているんだけど、日本人にはまだまだ通用しているところがあるようだ(映画館の場所である渋谷が生んだピチカートファイヴが残した磁力はまだ働いているのだろう)。上映前の予告編に出てきた『レ・ミゼラブル』ではパリ郊外の移民が多く住む街で起こった警察と移民の緊張関係が映っていたのだが、現在のパリおよびフランスに対するイメージは「恋人」ではなく「移民」にシフトしつつある。2つの言葉が持つイメージは双方の極点にそれぞれに位置し、そのあいだにパリおよびフランスの様々なイメージが交差しグラデーションさながらに彩っていることは言うまでもないが、『パリの恋人たち』のタイトルだけを目にすると、やはりロマンティックな極点に引き摺られている印象がどうしても否めないのである。
タイトルについてだらだら書いてしまった。さて本作だが、監督でもあるルイ・ガレルが演じるアベルは急死した友人のポールを通して、元彼女の成熟したマリアンヌと小悪魔的で一途な小娘エヴの対照的な2人の女性のあいだで翻弄されている。若きマリアンヌが当時付き合っていたアベルにポールの子を孕んだので別れてほしいと澄ました顔で言うのに対してアベルは全然怒らずにあっさりと受け入れる冒頭のシーンには呆気にとられるのだが、それ以上に奇想天外だったのは、急死したポールの葬儀のシーンである。曇り天気の下で行われた葬儀の沈痛な雰囲気はしっかりと保たれているその一方、パートナーのポールを失ったばかりのマリアンヌとアベルはその場で縒りを戻すかのような意味ありげな目線を交わしていたり(結局復縁することになる)、ポールの妹であるエヴは兄が死んだことより、幼少の時から好きだったアベルのことで頭がいっぱいになっている。ルイ・ガレルはあくまでもアベルとマリアンヌとエヴの三角関係を描くことを主題(ラブコメ的に)にしており、人が死んだとか、家族関係への悪影響とか、社会的な価値観より恋愛関係の個と個における自由な展開に映画の可能性を見出しているのであり、それはやはりフランス人の恋愛観を様々な角度から描写したヌーヴェル・ヴァークのテイストを正統に引き継いでいる。恋愛関係に限らず、不可解な存在である他者の不透明さに接するときの感情はコモンセンスとアナーキーのあいだで揺れ動いている。ルイ・ガレルや登場人物たちは危うい感情の戯れのなかへ果敢さと朗かさ(自然さ)を持って入っている。大人たちが恋愛し合う三角関係の中心にはマリアンヌの息子であるジョセフがいる。大人たちの恋愛を妨害したかと思えば、逆に促進したりもするようにジョセフも大人たちの自由な言動に半信半疑で付き合っていたが、自ら行方をくらますことによって一時的に大人たちの恋愛を家族と社会の現実につなぎとめるラストシーンは静かな感動が漂っている(三角関係の発端となった葬儀が行われたポールの墓に登場人物の全員は再び集合させられたのだ)。精一杯の気持ちが込められたジョセフの右手はアベルの方へかすかに差し伸べるのだが、一度は下げられた手をアベルが掴む一連のシーンには、予測不能でミステリアスな女心と違って細かな感情の動きが手に取れるような揺るぎない明確さがある。