『グッバイ・ゴダール!』

グッバイ・ゴダール!』を観る。どこかの映画館で手に取ったチラシの表紙からくる、妙な感じはあったものの、20代の僕にとって青春だったゴダールフィリップ・ガレルの息子であるルイ・ガレルが演じるという魅惑的な組み合わせに無反応でいられるわけがなく、僕の足は自然と映画館へ向かってしまった。ルイ・ガレルゴダールは憑依というほどではないが、徹底したなりきりぶりには見応えがあったし、幼妻特有の天真爛漫な自然体を美しく体現するスティシー・マーティンの存在感には澄みきった鮮やかさがある。だが、この映画には映画のモチーフと映画の表現の乖離性が目に余り、据わりの悪い気分が終始消えなかったことも正直に言わねばならない。本映画で描かれるのは『中国女』以降、政治に急接近し映画と政治の新しい関係を模索し始める、ゴダール映画にとって大きな転換点になった時期の苦悩するゴダール像である(はずだった)。5月革命のデモに連日参加し、ソルボンヌで学生たちと激しく議論する1968年当時の政治的風景(大勢のエキストラによるデモの騒乱のシーンは迫力あった)のなかのゴダールは、当時の二度目の妻であるアンヌ・ヴィアゼムスキーの視線によって表象されることになるのだが、画面に映るのは初期ゴダール映画に現れるポップさ(ゴダール風)を表面的になぞるだけの、時期を確信犯的にズラした軽薄的イメージのみである。ゴダールは初期の頃から政治に対する志向を持っていたが、1968年前後に商業映画から離れ政治的な色合いをさらに強めていく、その過程に出現する政治と映画のあいだを揺れ動く思想的闘争は、ひとりの女性の感情に沿ったプライヴェートな視線だけにとどめるにはあまりにも大きすぎた。そのことに気づいている者ならば、文学的表象のゴダール像を楽しむだけにとどめ、わざわざ映画にしたりすることはないはずだ。映画的思考を純粋な映画運動へと昇華しようとしたゴダールコマーシャリズムな伝記的映画に移植する虚しさだけが画面内で形骸化されざるをえない。あとになって気づいたのだが、この映画を撮ったのは、現代に白黒のサイレント映画を蘇らせ、数々の映画賞を総なめした『アーティスト』(2011年)と同じ監督である。映画史の草創期に創られたサイレント映画の本質から逸脱し、現代に流布するエンターテインメントの外郭にはめ込まれたサイレント映画と『グッバイ・ゴダール』のゴダール像は無害化された同じメーカーの商品に成り下がっている。
http://gaga.ne.jp/goodby-g/
『アーティスト』http://d.hatena.ne.jp/jj-three-ten/20120925/p1