ジャコメッテイ

国立新美術館で『ジャコメッテイ展』を観る。会場に入って最初のギャラリーでは細長い形と凸凹のある表面を有する唯一無二のスタイルになる以前のボリュームあるマッスに平坦な表面がそれぞれの幾何学的形態にはめ込められた初期の彫刻作品が数点展示されている。非西洋文化圏の伝統美術とキュビスムに関心をもち、シュルレアリスム運動に参加した時期に制作した初期の作品は、彫像という正統的な彫刻イメージからの逸脱、西洋的価値中心の終焉に向かうベクトルでの創造行為という美術史的文脈のなかで出てきたものである。それは当時芸術の中心であったパリの地で有志である周辺の美術家たちが起こしたムーブメントに促されながら制作した作品でもあったといえるだろう。世界第二次大戦が終戦する頃にジャコメッテイはジュネーブからパリに戻るのだが、自作のほとんどを放棄し、いくつかの小像をマッチ箱に入れて持ち帰ったという。戦争を経験したジャコメッティは人間の存在を等身大としての人間像ではなく、社会情勢や国家同士の争いに振り回されるだけの群集のなかのちっぽけな存在としての非主体的な人間像という感覚を強くしていったことがマッチ箱の小像という極限の選択を迫られていたのである。だが、自身の制作する彫像が縮小していくことに危機感をもったジャコメッテイはあらかじめ作品の高さの設定(1メートル)を課するのだが、その結果、マッスのボリュームが極限まで削ぎ落とされた細長い造形のスタイルに到る。かろうじて人間の形をした棒状態の彫像は孤立した存在の極限さを表象しているが、作家とモデル(写生と想像の両方)の見ることと見られることの不均衡な関係、他者の不穏な存在を通り越して、人間の内面に潜在する精神と肉体のどちらにも属しない、密集された形而上的なものが立ち現れてくる(デッサンの幾重に重なる細かな線にも同じ表象を見てとることができる)。細長い彫像は逆に無限に拡がる大きな空間を所有し、凸凹の表面から空気の振動が四方八方に伝播している。初期の幾何学的彫刻作品には内部に空虚性が内包されていて、作家としての主体というものが作品に付きまとっているが、細長い極限的な彫像では実存性と入れ替わるようにして空虚性は作品の内部から外部へ移行している。人間の形をした実存的物体には、作品側からも作家側からも人間的な主体は削ぎ落とされている。ブロンズの彫像そのものとジャコメッティの孤立した行為そのものの永遠的な物質関係、表象関係が人間の精神や時代精神を超越している。ジャコメッテイの彫像を前にしたときの自我と主体という概念が次第に溶解していくような感覚は美術館の外部(現代の社会的状況)で曖昧さと明快さのどちらかをもって変容していくことになるのだろうか。
http://www.nact.jp/exhibition_special/2017/giacometti2017/