ジョルジョ・モランディ

東京ステーションギャラリーで「ジョルジョ・モランディ 終わりなき変奏」展を観る。目の前にあるものへの絶対的な信頼性と対象の物質と空間への徹底性。モランディの作品をじかに見ていると、時間の感性がまるっきり違うことに愕然とさせられてしまう。絵画の技巧を最大限に発揮するためにひとつのことが集中される時間というのではなく、世間との最小限な関係のなかで対象と描く者の関係だけが永遠的に戯れていく孤高な時間。モランディは未来派と形而上絵画から距離を置くかわりにセザンヌに傾倒し、故郷のボローニャ(夏の間はグリッツァーナ)に行動範囲を限定し、生涯そこで反復的に絵を描き続ける。映画のなかで主題と時間を反復してきた、ヌーヴェルヴァークのひとりであるジャック・リヴェットは旅行することを大変嫌っていて、映画のロケも出来るだけパリ周辺ですませていたという。世界を広げるのではなく、慣れ親しんだ世界にとどまることで世界との関係の可能性を探っていく。だが、ネット社会となった今、グローバル化のなかでローカルな存在として芸術作品をつくるのとそれらは質が全く異なる。ローカルな空間にいても現代人の脳のなかは無限に広がる非実体的なものに支配されている。そこにしかない現前的な事物への感覚から始まるのではなく、終わりのないイメージのなかにいる感覚から始まる(始まるというより初めからそこにいる感じ)。一昔前の芸術家が持った孤高を現在持つことは不可能に近いのかもしれない。モランディの作品は簡素で幾何学的な立体物や淡い色彩からくる無機質的なイメージがあるが、物の存在感や実在としての奥行きへの注視があり、壁と置物のあいだにある光、影、距離が色彩、形態、量感とともに描かれていて、物と空間の根源的関係が明確な構図として現れる。モランディの絵画空間は完全に操作された空間ではあるが、対象はしっかりとモランディの感性に応え、感覚の交流が単純化のなかで繰り広げられる。イメージを引用する僕の作品は、レイヤーで画像を重ねた数だけの透明な奥行きと構成された画面がそれなりに出現はするが、レイヤーのあいだには観念だけが浮遊する空虚な空間があるだけだ。感性のベクトルは異なるが、モランディの同じモチーフの繰り返しによる反復的作業の持つ意味が僕のなかで次第に大きくなっていくような気がする。同じモチーフで少しずつ配置をずらすこと、様々なヴァリエーションを表示することで大小の差異を生み出す。差異によって世界はつくられていく。この方法論と世界認識に対して僕の心はかなり揺さぶられている。だが、実現の如何にかかわらず、モランディのブレない強靭な精神性が僕に先ずそなわっているのかどうかという現実的な問題がたちはだかるのはいうまでもない。
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201602_morandi.html