海だか湖だかわからない水面(あるいはなかったのかもしれない)に日の出あるいは日没の黄金色が美しく染まる景色が列車の移動撮影によって流れていると思って見ているうちに、画面がゆっくりとパンしながら助手席の医者らしき人物をとらえたときに列車ではなく自動車のなかなのだと気付く。視覚のみだけで画面を凝視すると運動の表層がバランスを失って対象や事象を誤解釈(過剰解釈)してしまうことがあるのだが、幻想的な境界の時間帯に現れるおぼろげな空間のなかで事物は正体不明のままそこに存在する。郊外に佇む世間から忘れられたかのような寂れた古城に向かうあいだ、車の移動時間に沿って過去の記憶がフラッシュ・バックされる。車窓の外を流れる現在の風景と中世の恰好をした人を乗せた馬が一斉に駆け抜ける過去の光景が同じ速度をもってひとつながりする画面の流れる運動は回想の形式をはるかに凌駕している。古城にはマルチェロ・マストロヤンニ演じる、エンリコ四世と思い込んでいる男が王様同様に従者とともに暮らしている。20年前の仮装パーティで落馬し頭を打って以来、狂人として幽閉されているのだが、伯爵夫人に扮した元恋人が訪問したことによって真の姿を現すことになる。何故20年も古城にいるのかはおそらく精神病院に入院している設定として考えられるのかもしれないが、それにしてもすべてがあまりにも不透明であり、閉所恐怖症に近い居心地のわるさにかられる。男は肖像画の前に立つ現在の元恋人を頭ごなしに否定し、肖像画のなかの美しい女性と瓜二つであるフリーダ(元恋人の娘)を賛美する。20年の間の空白からくる挑発的な行為は狂人のふるまいを逸脱するのだが、外来者の一群は当惑しつつもおずおずと狂人のまま扱い続ける。その無神経さと傲慢さ(滑稽さ)に我慢の限界を超えた男はラストシーンで「20年間、狂人を演じていたのだ」と告白し、元恋人の旦那を短刀で刺してしまう。だが、狂人を演じていたのは実は20年間ではなく映画の90分間そのままであったのだ。映画のなかで役者が演じるという当たり前すぎる事実をチープな小道具とともに惜しげもなくさらけだし、今度は元恋人ではなく観客に向かって挑発する。「自分は狂人じゃないと本当に思っているのか?」「絶望することから逃げていないか?」と。そもそもこの映画は20年前の仮装パーティで中世の人物を演じることから始まり、現在もエンリコ四世になりきっている男に合わせるようにして元恋人は伯爵夫人を演じるという劇中劇の複雑化した構造として展開されており、最後の告白と種明かしによって劇中劇のうえをいくメタフィクションの構造が突如として現れるのだ。狂人と常人、映画と演劇、過去と現在、虚構と現実のあいだに複数のねじれがあり、ベロッキオによって不明瞭のまますべてがほったらかしにされている。
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