『バービー』:グレタ・ガーウィグ

 ピンクと人工光に彩られたスタジオセットで繰り広げられるバービーランドと自然光に晒され、雑然としたビーチや街中で人間たちがうろつくリアルワールドの対極にある2つの世界のギャップが、『バービー』においてもっとも脳裏に焼きつけられた映画体験であったように思う。鮮明で過剰な視覚的情報にはとうの昔から十分慣れているはずなのに、ギャップの強烈さを映画的強度として受容することになったのは、バービーのミニチュア世界が人間サイズに拡大されたことの異様な世界観からでも、バービーとケンがバービーランドと人間世界のリアルワールドを往復した先の価値観の変化による切実さ(深刻さも含めて)からでもなく、全ては僕自身の色彩センスから退けられているはずの「ピンク」色を中心としたカラフルな色彩そのもの(あるいはファンタジーな造形美)に端を発する物理的(表層的)現象に収斂している。視覚を通したマジカルな感覚が僕の知覚を支配していたのだが、『バービー』のピンクは言うまでもなく可愛さや煌めきのキラキラな世界を形成するイメージの要素を越えて、人間存在の(ほどよいバランス的な)平等を理想的に謳った象徴性を内包する「ピンク」として、長きにわたって世界中に普及してきた。一方で、理想的な平等性はバービーランドあるいは実在するドールたちにそれぞれの設定と役割を植え付けることにもなる。マーゴット・ロビーが演じるバービーが何気なく発する「死ぬってどういうことなの?」の言葉がバービーランドを一瞬フリーズにしてしまうのは、バービーの世界が隅々まで完璧さに覆われた世界になっているからなのはご存知の通りである。人間世界にいるバービーの持ち主であるサーシャの母・グロリアが男性たちに都合よく利用される女性について熱弁するシーンは映画の中でもっともメッセージ性のあるシーンになっているが、人間世界から男らしさの価値観を持って帰ったケンに対するバービーの複雑な感情と復権を取り戻したバービーランドの歪みの残余を見ていると、フェミニズムの範疇に収まりきれるような映画ではないことははっきりと言えよう。それでも女性は何かのメッセージを発信し続けなければならないことの切実さと正当性があり、現在の世界に蔓延する絶望さと過酷さにつながっている。バービーの生みの親である老婦人との出逢いからエンディングのある行動への一連には、やや予定調和的な締めくくりに見えもなくはないが、「人間」としてのバービーと「ドール」としてのバービーのボーダーラインを横たわる倫理的な曖昧さが余韻となって残されており、それへのリプライは保留にせざるをえないような現代的な混迷さがリアルにも身に染みるのである。