神の子、マラドーナ

中学の時、僕は規則がんじがらめの寄宿舎生活を送っていた。ワールドカップメキシコ大会の生中継はたしか朝2時頃からやっていたので、高校生の先輩2人と一緒に学習室のテレビを無音にして(この時ほど僕はろう者なのだと痛感したことはなかった)サッカーの試合を連日忍んで観戦していた思い出がある。まさにマラドーナによるマラドーナのための大会だった。5人抜きドリブル、神の手ゴール、アステカの青空がとても印象的だった決勝試合もリアルタイムで見ることができたのだが、そのたびに身体から爆発しそうな興奮を懸命にこらえていた(というより先輩に口や身体を押さえられていた)。あれ以来、熱狂的なファンになり、部屋全面をマラドーナのポスターでうずめ、舞台の上でマラドーナの役を演じたりもした。ただ、あの頃の僕は、ペレ、クライフと並ぶ偉大なるサッカー選手のひとりとしてしか見ていなかった。それからマラドーナは引退し、薬物中毒になり、デブになり、周辺とのいざこざを起こすトラブルメーカーになっていく。しかし、僕にとってそれらの情報はマスメディアのちょっとしたニュースから来たものでしかなく、「ああ、そうなんだ」という程度のことしかなく、マラドーナに対する関心は自然に薄れていった。だが、最近アルゼンチン代表監督になったことによって再びマラドーナへの興味がにわかに浮上してきたところ、ちょうど、今回の映画「マラドーナ」を見ることになったわけだが、今までの僕の持っていたマラドーナ像が180度ひっくり返り、偶像のマラドーナではなく現在のリアルな、そして別の顔をもったマラドーナの姿が映っていた。

この映画に映るマラドーナはサクセスストーリーの主人公ではなく、あるいはサッカーだけを愛する情熱的なサッカー小僧でもなく、これまでの世界から新たなる展開が動きつつある、混沌とした現在の世界情勢のなかに身を置く地球人の1人として行動を起こすマラドーナの姿がノイズ的な映像とともにありありと描かれているのだ。インタビューでは、アメリカやイギリスへの強烈な反感をあらわにし、ラテンアメリカ連帯の反資本主義集会に参加し、チャべスやカストロらと肩を並べたりする。サッカー界でもFIFAに対して執拗な批判を繰り返すのみであり、現在の世界を握る権力側に対して、全身全霊をかけて真っ向から闘いを挑むマラドーナを中心にこの映画は撮られている(オリバー・ストーンの「コマンダンテ」を彷彿させる)。サッカー人のマラドーナではなく、思想家のマラドーナがそこには映っていた。それは、今でも生々しい記憶や痕跡が残るサラエボ内戦を経験したセルビアを故郷にもつクストリッツア監督によって意識、無意識にかかわらず必然的に現れてきた映画表層の様相なのだろう。しかし、マラドーナの身体に彫られたタトゥーにあるチェ・ゲバラカストロのような理想高き冷静沈着な革命家と重なるような要素はマラドーナにはすこしも見られない。そのかわり薬物や女に溺れ、激太りしたり、暴力をふるったりするように、理性よりも感情を優先してしまうとても弱い人間性をさらけ出すばかりだ。それでもマラドーナの周りには、大勢の人々が熱狂的に集まり、一緒に歌を歌いハチャメチャに陽気に踊る。不合理であり、矛盾であり、泥臭くあり、あまりにも人間的すぎるがゆえに多くの人々に愛されてしまっているのだ。それは、これまでの歴史にたびたび出現した独裁者につきまとっていた大衆の熱狂さとは全く違うところにある。マラドーナのカリスマ性に対する大衆の熱狂は、扇動的ではなく自然発生的なものであり、人間としての素直さ、愚直さ、ありのままを求めようとするのであり、絶望につながる不穏さよりもユーモアをもった希望のほうに僕は感じられてならない。人間の不在そのものが世界を動かし、管理する現在において、人間そのものを剥き出しにするマラドーナは流動化されない身体を持った稀有な存在なのかもしれない。(時々、挿入されるアニメーションには、辟易してしまった。無いほうがよかったのだが…)