「恋も忘れて」

東劇で清水宏の「恋も忘れて」(1937)を見る。戦前の横浜を舞台とした水商売の母子家庭の物語を撮ったこの映画は全てに緩やかなリズムが流れている。横浜港の風景ショット群のずばぬけたセンスに唸り、幼顔と成熟した色っぽい身体のアンバランスが魅力的な桑野通子の一挙一足に僕の視線はどうしても集中してしまう。ダンスホールで働く女給たちの何かあるたびにたむろする場面とランドセルをしょってボスのまわりに集まる子供たちの諍いの場面が相互的に交叉するのだが、次第に大人の世界と子供の世界を分けたつ境界が融解していき、横浜の瑣末な場所から同一質の世界が現れる。横浜の実風景のショットが随所に挿入されるなか、セットシーンが大半を占めているようなのだが、そのセット風景は幻想的に見えたり、不気味に見えたりしてあやふやな印象がする。母子家庭の住むアパートの外風景(ドイツ表現主義映画を思わせる)は霧に包まれて神秘的な雰囲気を醸し出しているのだが、女給と客がまばらに散っている、空間だけがやたらと広いダンスホールは不自然な感じがして不気味だ。それぞれのセットシーンには人工的、偽っぽさがどうしても出てきてしまうのだが、不思議と社会の底辺にいる登場人物たちの哀切さと見事に調和されている。役者の動作も細かい演出通りに動いているふしがある。ダンスホールからの帰りに桑野通子と佐野周一が一定の間隔を崩さずにゆっくり歩くシーンや子供たちの決められた配置通りに動くところなどに見られる。だが、そのみえみえな作為的な役者の演技のなかには、矛盾しているようだが、ごく自然な愛のやりとりや子供たちのふるまいがある。なにげなく女給たちによる労働争議を入れているのも悪くない。いつの時代にもある出来事ではあるのだが、1930年代に撮られたこの映画での労働争議大正デモクラシーを彷彿させる。この映画ではカメラのバックによる移動撮影(引き?)が目立っていたのだが、カメラを引く時にカメラの左右から人物やモノあるいは風景がゆっくりと現れてくる。その視覚的感覚は心地よい緊張感をもたらすとともに、弱者の視線にたつこの映画にはとてもふさわしいカメラワークではないかと思わずにはいられないのだった。