ジャームッシュとプーマ

久しぶりのブログ。さて今回の映画雑感は、だいぶ前に観た「リミッツ・オブ・コントロール」。前作「ブロークン・フラワーズ」以来4年ぶり、ジム・ジャームッシュ監督の新作なわけだが、本場ハリウッドやハリウッド化されつつあるアジア映画、あるいは、涙腺をいかに緩められるか、笑ってごまかすか、のどちらかしか考えていない日本映画などが席捲しているなか、一匹狼的に孤高なスタンスで撮られたクールな映画という印象だ。そのような映画は注意して世界中を見渡せば次々と出てくるが、僕にとってジャームッシュの映画は、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」発見以来、リアルタイム(「ミステリー・トレイン」から)に付き合っているので、新作が出るたびに自動的に僕の意識が注意を向かわせる。

文学的なコードを使って最後まで謎めいた雰囲気を持続してこの映画は終わるのだが、いままでのジャームッシュの映画にはなかった余韻や感触が映画館を出てもなかなか消えない。それはなんだろうかと考えてみるのだが、スタイリッシュな画面にある時代錯誤な部分をかかえながら、なんとかそこから逃れようともがいているジャームッシュの姿がみえたからなのではないだろうか?主人公の任務の遂行を目指していく過程の淡々としたカメラワークと、次々と出現する謎の人物たちとの非日常的な会話や抽象的な戯れを目の当たりにしていると多少はカッコいいと感じつつも、現在のただ中に生きている心地がしない、あるいは現在に結びつくような言動が見えてこない。つまりは同時代的な要素が感じられないというのが、正直な感想だった。それは、僕がジャームッシュの難解なメッセージに気が付かないからかもしれないし、音楽と一緒に画面を見ていないからかもしれない。(ジャームッシュの映画は音楽の存在が大きいといわれているし…)しかし、終盤近くのアジトシーンでのビル・マーレイの滑稽なカツラや慌てふためく場面にはジャームッシュの映画のなかで初めてといってもいいくらいカッコわるいと思えたのだが、それと同時にジャームッシュの迷いという人間臭さが垣間見えたような気もする。ジャームッシュ映画に常につきとまっている文学性がその時は消えていたのである。その後、ラストに主人公が任務を果たし終え、いままで同一色系のピシっときまっていたスーツがトイレのなかでプーマのラフなトレーナーへと着替えられた時、急にリアルな現代の日常へとトリップしたような感じがしてとても新鮮であった。過去のジャームッシュ映画を遡ってみれば、ジャームッシュとプーマほどかけ離れたものはなかったはずだ。その時のカメラワークもスタイリッシュな画面から急に不安定に揺れ始めたのだ。(そこで初めてクリストファー・ドイルの顔も一瞬見えた)文学性の強いジム・ジャームッシュ映画の新たな転回を予感させる場面であり、次作への興味が途切れずになったのであった。(映画のなかの文学性を否定しているわけではない。)