「アイ・コンタクト」

世の中には、様々な人間がいるように、耳が聞こえないといっても様々な人たちがいる。だが、様々な耳が聞こえない人たちというのは、なんといってもまず、言語使用形態の違いが真っ先に現れてくる。もちろん大きな違いは、手話の有無である。最初、手話か、口話かといった二者拓一なものに分かれるのだが、現在の耳の聞こえない人は、ろう者、難聴者、中途失聴者といった類別化にかかわらず、昔と比べると全体的に手話使用の比率が高くなってきている。しかし、その手話には、日本手話と日本語対応手話あるいはその2つのあいだにある中間手話といった、グラディーションさながらに様々な手話の形態が出現する。それらの手話形態のなかで明らかな差異を決定づけるのは音声の有無である。音声は日本語を話すということであり、その話者に音声が付いているのであれば、大体は日本語の文法に沿った日本語対応手話になる。逆に音声が付いてない手話は日本語の文法から離れていき、手話と手話を話す時の上半身全体の動き(非手指動作)それ自体のみに生じる文法(独自の文法とはあえて言わないつもり)をもった日本手話となる。大まかに2つにわけるとしたら日本手話と日本語対応手話ということになるのだが、実際はもっと複雑である。中間手話という言葉があるように2つのあいだには、ここからここまでが日本手話、ここから先は日本語対応手話であるというように境界線を引くことは不可能に等しい。何となくこれは日本手話だなとか、これは日本語対応手話寄りな感じだなとか、いうふうに不明瞭にしか判断できない。それでも日本手話と日本語対応手話の大体の違いというのは明らかに出現する。つまり2つの境界線は浸透しあっているが、音声の有無によってそれぞれの核心は別々に存在している。

様々な耳の聞こえない人たちが、サッカーを通じてそれぞれ自分自身のことを話す(引き出された)この映画を、僕はいつも通り補聴器を付けて見たのだが、日本手話、日本語対応手話といった様々な手話形態よりも、音声の有無に引っかかってしまい、音声そのものに意識せずにはいられなくなってしまった。僕はこの映画に登場する耳の聞こえない彼女たちのような人たちと普段の生活のなかで会ったり話したりするのだが、カメラのフレームのなかの耳の聞こえない人が話している姿を目の当たりにすると、現実の感覚がどこかにいってしまうような奇妙で不可思議な感じがしてしまう。口話主体で話すが、時々手話が出てきてしまう者もいれば、口話と手話を同時進行させながら完璧な日本語対応手話を使う者もいる。インタビューの時は音声を出しながら口話なり手話なりと話すが、ミーティングや練習する時とか仲間とじゃれあうシーンなどカメラと対象者のあいだに、ある程度の距離が生ずるときは、声を出さずに手話のみで話すという場面が随時見られる。ろう者の親を持つ者(デフファミリー)は、ほとんどが声を出さずに流暢な日本手話を使うのだが、感情の度合いによっては喉元から漏れる声が生々しく聞こえてくる時がある。それだけではなく、手と手が触れ合う物質的な音が発生することもある。同一人物が、映画の前半のインタビューでは声を出していないが、後半のインタビューでは声を出しているといった場面も印象的だ。耳の聞こえる人が絶対多数である社会のなかで、耳の聞こえない人に音声の世界を押し付けてきた歴史と現状がこの多様化された彼女たちと音声の関係を形づくっているのだが、それ以上に耳が聞こえない人でも一個の身体がある限り、どこまでいっても音声がつきまとってしまうことのほうが強烈なことであり、揺るぎのない事実なのだということをこの映画は映している。音声のある日本語対応手話、音声のない日本手話というこれまでの見方を超越した現実の世界、あるいは生身の人間自体の存在がある。音声イコール日本語というのではなく、音声そのものがこの映画には散りばめられている。耳の聞こえない人は音のない世界に生きているといった世間の一般的な見方があるが、実際はそうではない。たしかに耳は聞こえないが、意識と無意識とにかかわらず自ら身体から音声を発し、能動的に社会と関わっているのだ。身体から生ずる生々しさと向き合っている彼女たちの存在のたくましさは、サッカーと関わることによってカメラの向こう側で顕在化されたといえるのかもしれない。