不意な支離滅裂、あるいは無音声の絶望さ

詳細のネタバレあり。展示期間後の感想になると思うのでお許しを。
最近、耳が聞こえない建築学の研究者である木下さんのサイトを見つけたのだが、そのなかに木下さん本人出演の映像作品が武蔵野美術大学の卒制、修了制作の優秀作品展で上映されているというので、見に行ってみた。タイトルは「聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと」。作者は百瀬文さん、作品時間は25分。始終部屋内でのインタビューで貫かれている。インタビューを始める時、この作品の作者でもあるインタビュアーは実際に声を出しながら考えてみようという話がしたいと木下さんに提案する。こうして耳が聞こえない者と耳が聞こえる者同士で音声による会話が始まる。手話についての話が途中出てくるものの、手話はほとんど出てこない(木下さんが話す時、手話の単語がちらほら出てくるが音声に付いてくる身振りの意味を超えることはない)。耳が聞こえないことについての問答が続き、中盤にさしかかると声と言葉についての内容が浮上してくる。木下さんの発音が聞き取れず、インタビュアーが再び聞き直そうとする様子が時々見られる。逆に木下さんの読唇にも限界があり、インタビュアーの質問を度々聞き直す。お互いに同じ言葉を繰り返し身振りを交え、あるいは空書も試みたりする。インタビュアーが聞こうとしていることは、まさにその耳が聞こえない者と聞こえる者のあいだに発生する会話のズレ、齟齬についてだ。耳の聞こえない者は人の言っていることを完全に聞くことができないことの不安から逃れることはできないが、耳が聞こえる者同士でも会話のズレは常に発生する。耳の聞こえない者にインタビューすることによって、耳の聞こえる、聞こえないにかかわらず、人間が持たざるをえない言葉の持つ不確実性をあぶり出そうとしている(つまり耳の聞こえない者は言葉のズレを明確化するモデルとなりえるのだ)。
しかし、どこか変な感じがする。本当にインタビューしているようには見えないのだ。インタビュアーのよそよそしさ(チラチラが半端ない)、木下さんの話の空回り感、重ねた手指の不気味な動作のクローズアップ(赤いマニュキュアが異様さを放つ、まるでブニュエル映画のようだ)など、他のドキュメンタリー映画によくあるインタビューのシーンとはまるで雰囲気が違う。奇異な様相が面白く感じたものの、違和感を拭いきれないまま上映会場を出ると、出入口のところに耳の聞こえない者のために用意された台本らしきものが置いてあったので手に取ってみる。頭の中が真っ白になった。中盤からインタビュアーのセリフは文字化けしたように、作品のインタビュー内容とは関係ない言葉がところどころに入っているのだ。中盤のセリフから関係ある言葉と関係ない言葉が半々に混じり、徐々に関係ない言葉が増え、支離滅裂さをエスカレートしていき、しまいにはインタビュアーのセリフが無音声になってしまう。にもかかわらず木下さんは自分自身のこと、声について真摯(少なくとも画面上ではそう見えた)に一方的に答えている。作品の字幕では木下さんに向かって「その言葉を話しそれを読唇していたとしても、実際は全然別の言葉を話しているかもしれない」のようなことを話す場面で実際に編集によって支離滅裂の言葉と入れ替えていたのだ。この確信犯的な表現にろう者である私はどう向きあえばいいのか途方に暮れてしまう。距離を置いて見ることは難しい。私の場合は上映中に気づくことができず事後に印刷物の文字を通して知るというタイムラグと媒体の違いがある。上映中のリアルタイムと音声で支離滅裂の言葉変換と無音声への移行を聴者が受ける感覚とろう者のタイムラグから受ける感覚は決定的に異なる。だから私はこの作品に対して感覚より倫理感が先立ってしまい、当事者(木下さんと同じ耳が聞こえない者であること)としての動揺、あるいは不快感がしばらく続いた。例えば、Chim↑Pom原爆ドームの上空に飛行機雲で「ピカっ」という文字を描いた時の被爆者とアーティストの関係のように当事者とそうではない者との感情の食い違い(ズレ)がここでも発生する。たまたま見つけた木下さんのサイトでこの作品を見ることが出来たことは、誰もが希求するどこかでつながっているという感覚を持つことであり、同時に耳が聞こえる者と同じようにこの作品を見ることが出来ないというアンビバレントが出現する。インタビュー時の画面と編集後の画面の分裂がまさにそんな状況である。にもかかわらずインタビューが行われた場所、あるいは上映会場の時空間は共有しているという不可解さは私が日常生活のなかで常時感じていることでもある。耳の聞こえない者と耳の聞こえる者を乖離するのは音声の存在であるが、どちらも音声そのものは発することはできる(木下さんが不完全な発音をするように)身体性の不可解さもある。もし、作品の字幕まで支離滅裂の言葉に書き換えられていたら、また違った感触を得たかもしれない。とはいえ、感覚は時代性、本人の持つ身体や歴史による固有性によって培われる主観的なものにすぎない。人間は生まれながら社会的に生きる術(共通感覚)を順次に獲得していくが、人間は言葉のズレや齟齬がそうであるように(調整して平均値にもっていこうとするが)結局は自分自身の感覚だけでしか世界と付き合うことはできない。どこまでもズレ、齟齬を重ねていくしかない。刃物で腹を抉られるような衝撃さをもったこの作品は言葉を持ってしまった人間の残酷さ、わかりあえなさが絶望的なまでに入っている。それでも私は耳の聞こえる者との交流を可能な限り求め続けていくだろう。