『山の焚火』

《ネタバレご注意ください》 

 雄大な山々が連なるアルプス山脈を間近に眺めわたすことのできる山腹で人々から隔絶した生活を送る4人家族。最小単位の家族共同体のなかで耳の聞こえる両親と姉の3人が日常的に言葉を交わし合うなか、耳の聞こえない聾唖者の弟は家族の愛情を一身に受け、健やかに育ちつつも、意思を伝え合う言葉を持たないまま精神的に孤立している。姉は自分の名前である「ベッリ」で両親から事あるたびに呼ばれるのだが、弟は家族の間で「坊や」としか呼ばれず、映画のなかで始終弟に名前を与えられることはない(祖父母からでさえも)。聾唖者の弟は言うまでもなく家族の一員として認知されてはいるが、同じ人間としては半ば認知されていない。そのようなアンチノミーな家族関係が大自然の中でクローズアップされている。中心から遠く離れた辺境に山人として生活する家族共同体のなかで異端児として扱われざるをえないという二重化された周縁的存在を弟はたったひとりで成長過程中の身体にまとっている。身近にいる家族にでさえ意思疎通が図れずに突発的に苛立ったり、暴れたりする弟に、姉は兄弟(姉弟)愛を超えた献身さを持って親身に接し続ける。家族と一緒にいるが故にますます募る孤立感に耐えきれずに自ら家を飛び出し山小屋に隠れ、ひとりで生活をする弟のところへ食料などを届ける姉は、山頂で焚火を囲む二人だけのつかの間の幸福な時間を過ごすうちに禁断のタブーを犯してしまう。唐突に現れる、絡み合う裸体のシーンは二、三のカットであっという間に終わるのだが、そのわずかなシーンには生なましさと神々しさが凝縮し、観る者の価値観までが根底から揺さぶられるような強烈な表象を有している。夜明けの山々は人間社会にあってはならない出来事を全面的に認めるかのように壮大なスケールをもって二人に承認の眼差しを注いでいる。山にとって、人間社会のタブーはたんなる人間の本能的な営みから生ずる些細な出来事のひとつにしかすぎない。父の出迎えもあり、家に戻った弟は精神状態に落ち着きをもたらすようになるが、家族の日常生活は姉の身体の変化につれて暗雲がじわじわと漂いはじめる。やがて山腹の小さな家族をギリギリ保っていた秩序は内部からあっけなく崩壊する。内部とはいうまでもなく弟の異分子的存在であり、父だけではなく母まで死んでしまったことで姉は音声による言葉を交わし合う相手を失ってしまう。つまり聾唖者の弟は姉との魂の交感を極限にまで推し進めることによって(音声による)言葉のないサイレントな世界に塗り替えてしまったのである(山頂での姉との完全な二人だけの時空間を家にまで持ち込んだ)。山腹の閉ざされた空間は本来余分なものを切りつめた最小限の生活が営まれざるをえない禁欲的な空間であり、言葉でさえ余分なものであったに過ぎない。その言葉の存在によって弟は不自由さを生まれながらにして背負う宿命をもつことになり、そういった精神的状態が辺境にある小さな家族共同体のなかで異分子としての怪物的存在へと漸次的に生成し、遂には家族を支配することになる。そのような人格形成と歪んだ家族関係には神話の構造が嗅ぎとれるかもしれない。異分子は排除されるどころか、家族を道連れにし破滅への道を邁進させてしまう。破滅する者はたいがい外部者であるが、弟は同じ血縁者でありながらも聾唖者であることによって内部と外部の二面性(別々の人格というのではない)を露出し、その間から裂け目を拡大していく。聾唖者にたいする家族の憐れみによって、内なる世界の共同体での連帯を破壊する行動が暗黙的に許されてしまう状況(弟の愚行に振り回される家族の宿命)になっていたわけだが、むしろ逆に破滅によって外なる世界へと開かれることにもなる。なぜならば、ラストで弟と姉は両親の死後に喪の作業を行い、家の外で黒に染めたシーツを掛けて外界へと向けているからだ。二人は下山し、街での生活を始めるだろう新たなる予兆を含意してこの映画は終わる(僕はそのように感じた)。弟は街で同じ耳の聞こえない仲間と出会い、自分の言葉=手話を獲得していくことになるかもしれない。そのことは神話的人物の枷が外れ、神話的世界から弟が解放され自由の身になることを意味するのだが、フレディ・M・ムーラー監督は悲劇のまま幕を下ろすことで、映画のなかにおける神話的表象を最後まで選択している。二人と姉の腹に宿る新しい生命への過酷な未来が待ち構える厳しい境遇には、先ほど僕が感じた新たなる予兆だけではなく、これ以上この先を想像することができないような、美しい神話的世界のまま途絶するイメージが重なってもいる。この映画には、俗世へのリアリズムと神話的世界への幻想が混在し共存する複数の表情が交錯している。山人の家族共同体(なかでも特に姉)が聖なるものとして(結果的に)描かれるなかで、弟は暴力的ではあるが無垢なる存在としてそこにとどまっているのであり、弟が言葉を獲得したときには俗なるものとしてこの映画のエッセンスを一遍に転覆するだろうという思いが、映画を観ている間にずっと引っかかっていたのは、やはり僕自身が「坊や」こと弟と同じ耳が聞こえない立場(周縁的な存在として)にあるからだが、その事実だけはどう抗っても免れえない。傾斜の空間をもつ〈山腹〉という場所は、神の住処のメタファーともいえる〈山〉と人間の欲望が溢れかえる〈平地〉との中間に位置している。映画のなかで聾唖者の弟は言葉をもたない存在として厳格に描かれているが、神と(言葉を話す)人間、聖と俗の境界にいる二項対立を超越するというか、むしろ逆に消滅させてしまうような、曖昧な人物としても描かれているのであり、境界領域である〈山腹〉は両親のでもなく姉のものでもなく、弟の揺るぎないテリトリーとしてある(両親がいるリビングから姉の部屋を覗くことができる片隅の箪笥と天井の間にある狭い空間も弟だけのものである)。